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潜水艦を意味するドイツ語Unterseebootの略であるが、歴史的には、第1次世界大戦、第2次世界大戦ではなばなしい活躍をしたドイツ潜水艦をさす言葉としてつかわれることが多い。さらに、第1次世界大戦以後、各国がきそって優秀なドイツ潜水艦の改良型の建造にとりくんだこともあって、Uボートは潜水艦の代名詞のようにもなった。本項では両大戦で活躍したドイツのUボートについて解説する。
近代潜水艦の初めは、19世紀末のアメリカのホーランド艇といわれるが、ドイツが海軍として潜水艦(当初は小型の潜水艇)の整備をはじめたのは、列国よりおそかった。これはドイツの沿岸および港湾が潜水艦の使用にむかず、北海では潜水艦の運用が不可能という判断によるものだった。 最初にドイツ海軍が建造したのは、1906年に就役したU1であった。U1は長さ42.4m、排水量238トンの小型潜水艇で、魚雷発射管1門を装備していた。つづいてU2が建造されたが、これらは試験と訓練に使用された。本格的な潜水艦は09年から13年にかけて20隻が就役したU3級で、長さは51.3mから64.5m、排水量は421トンから650トンに大型化し、魚雷発射管4門をそなえていた。第1次世界大戦に突入したときには、13年から就役がはじまったU23級まですすんでいた。
当初潜水艦の能力には各国とも懐疑的であったが、開戦からまもない1914年9月4日に、U21がイギリスの巡洋艦パスファインダーを撃沈、9月22日にはU9がわずか1時間半に3隻の巡洋艦を撃沈し、潜水艦の威力を世界にしめした。 しかし潜水艦が大きな能力をしめしたのは、このような軍艦撃沈より、通商破壊戦であった。ドイツ海軍はイギリスを屈服させるべく、1915年2月からイギリス周辺海域でのUボートによる商船破壊を開始した。戦果は大きく、一時はイギリスを敗戦寸前においこんだ。しかし、同年5月7日にイギリスの客船ルシタニア号を撃沈したことは国際世論、とりわけ多くの死傷者を出したアメリカ世論の反発をまねいた。アメリカの参戦をおそれたドイツ政府は、その後潜水艦による通商破壊戦を消極化させた。 1917年2月、ヨーロッパでの地上戦のゆきづまりから、ドイツは無制限潜水艦戦を再開した。開戦直前、開戦後の大量建造によって、潜水艦は100隻をこえており、戦果は飛躍的に増大した。しかし結局はアメリカの参戦をまねき、イギリスの開発した護送船団方式の威力で、しだいにUボートの活動は沈静化した。
第1次世界大戦で敗北したドイツは、ベルサイユ条約で潜水艦の保有を禁止された。しかしドイツ海軍はひそかにUボートの研究をすすめ、外国にダミー会社をつくるなどして、技術の維持をはかった。 第1次世界大戦後最初の潜水艦は、ベルサイユ条約の破棄をみこんで1933年から建造が開始され、35年以降次々と就役した。しかし確たる潜水艦建造方針がさだまらなかったため、39年9月に第2次世界大戦が勃発(ぼっぱつ)したとき、ドイツ海軍が保有する潜水艦はまだ57隻しかなかった。 ドイツ潜水艦はイギリスの護送船団方式に対抗するために、多数の潜水艦が集団でおそいかかる狼群(ろうぐん)戦術をとった。当初は就役潜水艦が少なかったためじゅうぶんな威力を発揮できなかったが、その後潜水艦の大量建造がすすみ、フランスの敗北で大西洋に直接面した基地をえると、戦果は幾何級数的に拡大していった。第2次世界大戦のUボートの主力となったのはVIIC型で、1941年から44年までに626隻が建造された。長さ67.1m、排水量769トンで、魚雷発射管5門をそなえていた。 アメリカの参戦後もしばらくは戦果があがったが、連合軍の航空哨戒(しょうかい)が強化され、レーダーの使用やドイツ軍の暗号解読がすすむと、しだいにUボートの活動は下火となっていった。ドイツは水中を高速で行動できる新型Uボートの建造をすすめたが、少数が就役したところで敗戦にいたった。 第2次世界大戦中、Uボートは1131隻が建造され、最終的には約800隻がうしなわれることになった。しかし大戦中のUボートによる戦果は、撃沈した商船が約3000隻(約1490万トン)にのぼり、一時はイギリスをふたたび屈服寸前にまでおいこんだ。
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