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  • 洛中洛外図屏風(歴博甲本)

    京都の賑わいと四季の景観を描いた洛中洛外図屏風のうち、現存最古のもの。国立歴史民俗博物館が所蔵する二点の中世の洛中洛外図屏風のひとつで、旧蔵者名をとって「町田家本」「三条家本」とも通称される。

  • 洛中洛外図 - Wikipedia

    洛中洛外図 (らくちゅうらくがいず)は 室町時代 から 江戸時代 にかけて描かれた風俗画で、京都の市街(洛中)・郊外(洛外)を俯瞰して描いたもの。多くは 狩野派 の手になり、ほとんどは 屏風 絵である。

  • [伝国の杜]米沢市上杉博物館/上杉本洛中洛外図屏風

    「上杉本洛中洛外図屏風」は、天正2年(1574年)に織田信長から上杉謙信へ贈られたと伝えられ、以後米沢藩上杉家に伝来したという由来を持ちます。平成7年に国宝に指定されました。 筆者は桃山時代を代表する画家・狩野永徳(かのうえいとく)です。

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洛中洛外図

洛中洛外図 らくちゅうらくがいず
百科事典項目
項目構成
I

プロローグ

洛中洛外図の「洛」とは、モデルとなった中国の都市、洛陽にちなむ京都の異称である。すなわち、洛中洛外図とは京の都の市中と郊外とを合わせ描いた絵画のことである。

六曲一双の屏風に描かれることが通例で、16世紀初頭から17世紀半ばまで、近世初期風俗画の時代全般にわたって制作された。図版紹介されたものだけで60点をこえ、未紹介作品をくわえると70点以上になる。しかし、16世紀の屏風遺品は模本もふくめて4点にすぎない。それ以外はすべて17世紀以降に制作されたものである。

II

洛中洛外図の誕生

屏風装の洛中洛外図の文献上の初見は「実隆公記(さねたかこうき)」永正3年(1506)12月22日条に言及されたものである。「越前の朝倉(貞景)が屏風を一双新調した。描かれているのは『京中』であり、土佐刑部大輔(光信)による『新図』である。大いに珍重すべきものであり、一目見て興味をひく」とある。この土佐光信によって描かれた「京中図」が、そのまま洛中洛外図であると断じることはできないが、博覧強記の公家三条西実隆が「新図」としている点は注目される。

この記事の少し前、1500年(明応9)には長くとだえていた祇園祭礼(祇園祭)が復活された。15世紀末から16世紀初頭は、応仁の乱の市街戦で大きく傷ついた都が町衆たちの経済力を背景に戦後復興のただ中にあり、かつての栄光をとりもどしつつあった時期である。おそらくこの復興期に洛中洛外図の祖型が構想されたのであろう。ちなみに、都が焦土と化していた1479年(文明11)に小画面(おそらくは扇面)の「洛中図」のコレクションにかかわる記事がみられる。イメージを視覚的につたえるためのもっとも有力な媒体であった扇面(扇面画)は、名所など遠い風景やすでにうしなわれた風景をしのぶ縁(よすが)でもあった。15世紀の末にはそれらが集成されて都市全体を眺望する洛中洛外図屏風の祖型が成立したと推察されるが、その内容は多分に追想的なものであった可能性が強い。光信の屏風は、こうした追想的な景観構成の中に、復興する都の現実的な描写を大胆にくわえた点で新しいと評価されたのではなかろうか。

III

洛中洛外図の定型

復興期の都は、御所をはじめ公武の屋敷がたちならぶ上京(かみぎょう)と、商工業者の店棚でにぎわう下京(しもぎょう)の2つの街区にわかれていた。町田本(国立歴史民俗博物館蔵)、上杉本(米沢市上杉博物館蔵)など16世紀の作例は、一隻(右隻)に下京を、東山を背景に描き、もう一隻(左隻)に上京を、北山、西山を背景に描く。都の栄華をつたえる郊外の社寺名跡を背景に、洛中の政治的なシンボルも経済的な活況もまるごと描きとるための巧妙な構成である。

左手に右隻を、右手に左隻を対面させるように立て、その間にすわって見ると、まるで京の都を内側からながめわたしているような感じになる。そこには、季節のモチーフも時計回りに規則ただしく春夏秋冬の順に描きこまれている。東洋の古い堂内壁画の四季構成を範としており、このような構成を「第一の定型」とよぶ。いわば、どこにでも持ち運びできる可動性の小京都であった。

17世紀に描かれた作例もまた、基本的に定型の構成をならっているが、季節の循環の意識が希薄になり、左隻の視点がやや西南に移動する。それはその中心に1603年(慶長8)に急遽(きゅうきょ)建造された二条城という巨大モチーフを描くためであった。最初期の作例と目される京博本(山岡家旧蔵本。京都国立博物館蔵)では一隻の画面の3分の2を二条城が占めており、その門前では将軍宣下(せんげ)のためのパレードが賑々(にぎにぎ)しくとりおこなわれている。これは徳川家の政治的な意図で主題の再生がおこなわれたものであり、「第二の定型」とよばれている。

IV

洛中洛外図の終焉

慶長から元和初め(1615年前後)にかけて定型とはまったく別の視点から描かれた舟木本(東京国立博物館蔵)、高津本(高津古文化会館蔵)の2作品は他に類例のないものだが、その実感的な描写が注目される。舟木本は両隻ならべて立てると図様が横に連続する。豊臣家滅亡直前の洛中に焦点をしぼった構成であり、精密な描写で「カブキの時代」の洛中の熱気をあますところなく描いている。一方、高津本は縦に図様が連続する構成であり、素朴な描写ながら慶長期(1596~1615)の都市の放埒(ほうらつ)な雰囲気をよくつたえている。いずれも変型に分類されるが、洛中洛外図という主題の最後の創造的な輝きをしめしている。

第二の定型は、本来主題の担(にな)っていた政治的な意図をうすめつつ、いくつかの工房パターンに分化しながら描きつづけられる。二条城前のパレードは、1626年(寛永3)の後水尾天皇の行幸に、あるいは祇園祭の神輿渡御(みこしとぎょ)や朝鮮通信使の行列におきかえられるが、都の観光都市化にともなって、同じ図様を量産するいわゆる「仕込み絵」として再生産され、土産物化していく。そして17世紀半ばすぎには、地図的な要素の強い洛外図や都案内の版本にとってかわられるのである。

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