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自然史、自然誌ともいう。動物や植物、鉱物など、自然のさまざまな事物や現象について標本や情報をあつめ、その性質をしらべ、図鑑などのかたちにまとめあげる学問。人類の歴史と同じほど古い歴史をもち、その内容は時代とともに大きくかわっていく。近代科学が確立される19世紀後半以降には、大部分は、生物学および地質学へと発展的に解消され、博物学的な伝統をうけつぐ研究態度は自然史研究とよばれるようになった。博物学的研究をする人々は博物学者Naturalistとよばれたが、現在の自然史研究にたずさわる人々は博物学者ではなくナチュラリストとよばれることが多い。 人々が自然界の事物に深い関心をよせるもっとも大きな理由は、実用的な関心である。どの植物が食べられるか、おいしいか。どの動物がつかまえやすいか、毒はないか、薬としてつかえるか、あるいは日常の道具や武器の材料になるか。そういった知識は原始的な社会で生きる人々にとって不可欠なものであり、伝統としてかたりつがれ、文字の誕生とともにやがて文書としてまとめられることになった。これが博物学の出発点であり、当然のことながら各民族の神話や信仰と密接にむすびついていた。 博物学をそだてたもうひとつの要因は人間のすべてを知りたいという好奇心である。めずらしいものは未知の有用性をひめると同時に、その入手の困難さが権力の象徴となる。そして、権力者の珍品好みとむすびついた好奇心が、実用性とともに博物学の原動力となっていった。
世の中にあるめずらしいものの情報をあつめた書物は博物誌や自然誌とよばれ、東洋では、博物学の名前の由来となった3世紀中国・西晋の宰相である張華(ちょうか)の「博物誌」、西洋では1世紀のプリニウスの「博物誌」などが代表的なものである。これらの本にはたんに自然物だけでなく、かわった物産品、地理、怪物、遺跡といった事柄もふくめられていた。人間の好奇心は、雑多な物事についての事実の記載をあつめるだけにあきたらず、やがて、なんらかの理論によって統一的な理解をはかろうとする傾向が生まれる。そこから、学問としての博物学が生まれてきた。 西洋では、年代的にはプリニウスに先行するギリシャ時代のアリストテレスの「動物誌」やテオフラストスの「植物誌」、あるいは1世紀のディオスコリデスの「薬物誌(マテリア・メディカ)」に博物学的な思考がみてとれる。他方、東洋では、1~2世紀に成立したとされる「神農本草経」にはじまる各種の本草書が、薬物学的な博物学の基礎をうちたてていった。
ギリシャ、ローマ時代に大きな発展をとげた西洋の古典的博物学は、中世を通じてほとんど新たな知見をつけくわえることなく、イタリアの修道院などでひそかに生きのびるだけであった。しかしルネサンスの到来とともに、近代的な博物学の時代がおとずれる。イスラム世界に保存されていた古代ローマ文明遺産を再評価しようという気運の中で、16世紀から17世紀にかけて、ドイツを中心に新しい博物学の台頭がはじまった。 植物では、ドイツのオットー・ブルンフェルスによる「植物活写図」(1530~34)や、レオンハルト・フックスの「植物誌」(1542)が出版された。ほかにもオランダ人医師のレンベルトゥス・ドドネウスによる「草木誌」(1554)などがあり、それらは新たな観察にもとづいて写実的にえがかれた植物図譜であった。さらにドイツの医師・植物学者であるバレリウス・コルドゥスの「植物誌」(1561)やヒエロニムス・トラグスの「植物書」(1539)では、解説文も実際の観察にもとづいて書かれるようになる。 これらの図譜刊行は印刷術の発明にささえられたものであったが、一般読者から好評をもってうけいれられた。それまで薬物学の対象でしかなかった植物が、鑑賞の対象として、大衆の関心をよびさますことになっていく。 動物では、スイスのコンラッド・ゲスナーがまとめた「動物誌」(1551~58、87)のほか、フランスのギヨーム・ロンドレによる「海産魚類」(1554)、ピエール・ブロン「鳥類誌」(1555)、イタリアのウリッセ・アルドロバンディ「鳥類学」(1599~1603)と「昆虫誌」(1602)、イギリスのトマス・ムフェット「昆虫または小型動物の劇場」(1634)、ポーランド出身のヨハン・ヨンストン「禽獣魚介虫譜(きんじゅうぎょかいちゅうふ)」(1649~52)といった図譜があいついで刊行された。これらの図譜はアリストテレス以来の古い記述をひきずりながらも、実際におこなった解剖学的研究の成果がもりこまれているところに新しさがあった。 17世紀には、イギリスのロバート・フックやオランダのヤン・スワンメルダムのような顕微鏡学者が登場する。フックが「ミクログラフィア(顕微鏡図譜)」(1665)などで精密な細部をえがく一方で、標本ではなく生きた動植物をしらべてえがく傾向も強まりつつあった。スウェーデンのカール・リンネや、フランスのヨセフ・トゥルヌフォール、ミッシェル・アダンソンのような探検博物学者を輩出した。 18~19世紀になると、博物学書の出版の中心はフランスとイギリスにうつっていく。ナポレオン1世の遠征記録「エジプト誌」(1809~30)、ジェームズ・クックの「世界周航記」(1821)などの豪華な探検報告書のほか、ドイツのマーカス・ブロッホ「魚類図譜」(1785~97)、イギリスのロバート・ソーントン「フローラの神殿」(1799~1807)、フランスのフランソワ・ルバイヤン「フウチョウの自然誌」(1801~06)、ピエール・ルドゥーテ「バラ図譜」(1817~24)、ルネ・レッソン「ハチドリの自然誌」(1829~30)、アメリカのジョン・オーデュボン「アメリカの鳥類」(1827~38)、ジョン・グールド「オーストラリア鳥類図譜」(1840~48)、といった美術的評価にたえる、うつくしく大きな判型の図鑑が、数多く出版された。
16~17世紀には、新大陸の発見によって幕を開けた大航海時代が、世界のさまざまな辺境からこれまでみたことのないような動植物、化石や鉱物、民具などをもたらしはじめ、ヨーロッパの王侯貴族の間で、珍品収集熱がわきおこる。世界じゅうのあらゆる未開の地にむかって、大がかりな探検旅行が組織され、航海記や探検記が出版され、収集品をあつめる珍品陳列室が建造され、後世の博物館、図書館、美術館の基礎がきづかれた。また、ライオン、ゾウ、キリンをはじめとする異国の生きた動植物をもちこみ、飼育することも盛んになり、これがのちに公共的な動物園や植物園となっていく。 18~19世紀になると、珍品収集熱は王侯貴族だけでなく、富裕な商人や知識人の間にも広がり、博物趣味の一大ブームがまきおこった。上流階級では、外国産の毛皮やめずらしい鳥の羽を帽子にかざったりすることが流行となり、うつくしい貝、鳥、チョウ、岩石などのコレクターが誕生した。同時に、コレクションの目録から、多数の美麗な図版をともなった各種の図鑑類が生み出されることになる。 このころ、フランスのジョルジュ・ビュフォンとリンネに代表される博物学者が、それまでの専門書の枠をふみこえて、一般の人々にもわかるやさしい言葉で、知識や情報をかたったこともあり、博物学ブームは大衆の間にも広く浸透しはじめた。実際、各地に薬草、昆虫、化石、鉱物など採集を目的とする野外クラブがつくられ、地方の博物学協会へと発展していった。 19世紀の半ばには、イギリスの婦人たちの間で海藻と貝類の採集に対する一大ブームがおこった。そのあとの海水水槽ブームとあいまって、海洋生物学への関心も高まった。ほぼ同じころから、野鳥観察も盛んになる。 こうした博物学の隆盛は、多くの在野の博物学者や文学者による著作を生み、彼らの著作がまた、新たなブームに火をつけるという相乗効果が生じた。この時期の博物学者に強い影響をあたえた代表的な著作としては、イギリスの生態学者ギルバート・ホワイトの「セルボーンの博物誌」(1789)、ドイツの博物学者アレクサンダー・フンボルトの「南米旅行記」(1811~26)、アメリカの思想家ラルフ・エマソンの「自然」(1836)、進化論の父チャールズ・ダーウィンの「ビーグル号航海記」(1839)、アメリカの作家ヘンリー・ソローの「ウォールデン、森の生活」(1854)、イギリスの博物学者アルフレッド・ウォーレスの「マレー諸島」(1869)、イギリスの作家ウィリアム・ハドソンの「ラ・プラタの博物学者」(1892)、フランスの生物観察者アンリ・ファーブルの「昆虫記」(1879~1910)などがあげられる。
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