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人間は、他人とともにしか生きられない社会的動物である。だが、他人とまじわれば、かならずいさかいがおこる。そこで、これを公平にさばき、調停できるような規範や理念が必要となる。これが正義である。正義は法の基礎となり、正義にもとづかない法は強制力をもたない。 人間はまた良心をもつ動物でもある。みずからのおこなう行為がただしく、うつくしいかどうかがいつも気になる奇妙な生物である。行為それ自体のよしあしを判定する基準もまた正義とよばれ、この場合の正義は、道徳的な善と密接な関係にある。 では、正義を保証する根拠はどこにあるか。それを個人にもとめれば、「正義をきめるのは強者」ということになりかねない。一般に正義の根拠は、調和ある社会関係か、超自然的なものにもとめられる。ギリシャやローマの時代は前者、キリスト教的中世は後者の傾向が強く、近代の正義論はこの両傾向のせめぎあいとして特徴づけることができる。
古代ギリシャの哲学者プラトンによれば、正義とは「各自がそれぞれの努めにはげむこと」(「国家」)である。人間の魂は欲望、意志、理性の3つの部分からなり、国家も政治家と兵士と農民の3身分からなる。このそれぞれがほかの領分をおかすことなく、みずからの職務をまっとうするとき、魂と国家において調和のとれた正義の状態が実現される。 同じく古代ギリシャのアリストテレスにとっても、正義は「共同体的な徳」である。彼は、正義の本質を「平等の原理」にみとめ、それを「匡正(きょうせい)的正義」と「配分的正義」に二分する。前者は、各人の間で損得が生じないように物が等価で交換されることであり、後者は、各人が社会における貢献度に応じて適切な報酬や罰をうけることである。こうした考え方はローマ時代へうけつがれる。ユスティニアヌス1世の「法学提要」(533)の冒頭にはこうある。「正義は各人に彼のものをあたえる恒常的で不断の意志である」。→ローマ法の「ローマ法大全」
ユダヤ教とキリスト教は一神教であり、その神は人間に戒律をいいわたす神である。したがって、キリスト教が支配する中世においては、正義の唯一絶対の源泉は、聖書とそこに書かれた神の言葉である。アウグスティヌスによれば、人間は、最高の善である神を愛することによって正義を手にいれる。 イタリアのトマス・アクィナスは、永遠法、自然法、実定法という3層からなる法思想のもとに正義を基礎づける。自然法とは、神の世界統治の理念である永遠法が人間理性に適用されたものであり、正義はこの普遍的な自然法にもとづかなければならない。
自然法思想は、近代にそのままうけつがれる。近代法学の父グロティウスはこうかたる。「自然法は不変なものであり、神さえそれを変えられないという意味で不変なものである」(「戦争と平和の法」1625)。 ただし、自然法の基礎はもはや神の永遠法ではなく、人間相互間の理性的な合意ないしは契約である。17世紀の思想家ホッブズは、人間の自然状態は「万人の万人に対する闘争」でしかなく、そこには正義の観念も不正の観念もなかったと考える。そこで人間たちはたがいに契約をかわして、絶対権力(国家)をつくり、それによってたがいの生命の安全を手にいれる。さらにイギリスのロックは、人間は生命、自由、財産からなる所有権をまもるために契約をむすぶと主張する。 こうした社会契約説によれば、正義とは理性的な社会的ルールを遵守することにほかならない。
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