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坐(すわ)ったり、膝(ひざ)をついて目を閉じたりして、無心になるか、なんらかの対象に意識を集中させる宗教的な実践のこと。同じ意味の言葉としては、黙想や観想がある。
瞑想することは、いったん日常の生活からはなれることにつながり、宗教的な実践のきっかけになることから、多くの宗教においてみられる。とくに、神秘主義の傾向をもつ宗教においては、瞑想はきわめて重要な意味をになっている。仏教の禅における坐禅なども、瞑想のひとつの形態であると考えることができる。 宗教によって、瞑想の目的を、無心になることにするか、特定の対象を観想することに置くかはちがう。しかし、どちらの場合においても、瞑想をとおして、人間存在の根底にある存在を超越した何ものかに到達することを目的としている。 瞑想は、場所をえらばず、また特別の準備も必要としないため、専門の宗教家ばかりでなく、一般の信者によっても実践される。ただし、とくに瞑想を活用するのが、世俗の生活から隔離された環境で修道生活をおくる宗教家たちである。
キリスト教においては、修道院における修道士の実践の中で、瞑想が重要な意味をもっている。とくに、瞑想に力をいれたのが、イエズス会の創始者であったイグナティウス・デ・ロヨラであった。イグナティウスは、神やローマ教皇への絶対的な服従を説くとともに、祈りや瞑想が人間の自然な状態をかえることにつながるという確信をもった。 彼の著作としては、「霊操」が名高いが、これは、4週間にわたる神秘家の修行の実際についてしるしたマニュアルである。その修行の中核におかれたのが瞑想であり、その中には、ある光景や歴史的な出来事を生き生きと思いおこすといったことがふくまれる。 イスラム教においては、開祖であるムハンマドに、神からの啓示をくだされたのは、彼が、洞窟(どうくつ)や人里はなれた場所において、瞑想をおこなっていたときだった。 イスラム教で瞑想をもっとも重視したのが、神秘主義のスーフィズムだった。たとえば、9世紀のイラン人で、イスラムの世界では聖者として崇拝されるハッラージュは、メッカに巡礼し、その際に、断食と瞑想をおこなって、神秘的なエクスタシーをえたとされる。
西欧の宗教以上に、瞑想を重視するのが東洋の宗教である。そのひとつの代表例が、インドのヨーガである。パタンジャリによるものとされるヨーガの古典「ヨーガ・スートラ」においては、ヨーガの目的は意識の諸状態の停止にあるとされている。その目的を達成するためにもちいられるのが、瞑想である。 ヨーガの瞑想においては、単一の対象への集中がおこなわれるが、その対象となるものは、眉間(みけん)や鼻先といった物質的な対象であったり、観念であったり、あるいはイーシュバラとよばれる神であったりする。 仏教においては、その開祖である釈迦が悟りを開いたのは、6年にわたる苦行をすて、菩提樹の木の下で瞑想をおこなっているときだったとされる。仏教では、涅槃の境地に達することが宗教的実践の究極的な目標とされ、その際には、瞑想が積極的に活用される。 とくに瞑想を宗教的な実践の核としてもちいているのが、禅である。禅宗は、中国で生まれたが、そこでは禅定が重んじられ、坐禅によって悟りの境地に達することが修行の目的とされた。この禅をさらに徹底させたのが、日本の曹洞宗の開祖、道元であり、彼は坐禅を中心とした宗教生活の体系化をおこない、永平寺においてそれを実践した。 1960年代以降、世界的に東洋の宗教が注目をあつめるようになると、禅を中心とした東洋宗教の瞑想法に強い関心があつまるようになり、西欧の人々の中にも、瞑想を実践する人間がふえた。 宗教学者の岸本英夫は、キリスト教の神秘家による瞑想修行と、ヨーガにおける瞑想修行を比較し、両者がともに、浄化、照明、融合、合一の生活という4つの段階を経ていくととらえ、両者の共通性を指摘した。
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