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Windows Live® の検索結果 短期間(1898年頃~1908年頃)のうちに、近代絵画における色彩観を一新して終息したフランスの美術運動。画家たちは、穏やかな光をとらえる印象派の色調を拒否し、強烈な表現力を発揮した後期印象派のゴーギャンやゴッホのように、はげしい色彩をこのんでもちいた。生気のある線、単純ではげしい図柄、強烈な色彩によって、詩的な活力を表現した。 メンバーには、ドラン、ブラマンク、デュフィ、ブラック、マンギャン、マルケ、ピュイ、フリエスなどがおり、その指導者はマティスであった。「野獣」を意味する「フォーブ」は、1905年の美術展サロン・ドートンヌで蔑称(べっしょう)としてつけられたものだが、このグループの画家たちは、すでに数年前からこの様式で制作していた。この名称は彼ら自身がうけいれなかったし、彼らの作品のもつ明るい抒情性というイメージにもふさわしくはない。 1904年の夏に、マティスがサントロペで新印象主義の画家たちとともにこころみた色彩の実験から、フォービスムの色彩観は発展した。新印象派の画家は、原色の色点をならべて、印象派以上に正確な視覚的イメージをつくりだした。マティスの新印象主義による絵画は、厳密な規則にしたがいながらも、たんなる視覚的なイメージの記録ではなく、抒情性を生みだす色彩への強い関心をしめしている。 1905年の夏に、マティスとドランは、コリウールの「影のない黄金の光」の中で作品を制作した。彼らは生き生きとした筆遣いによって補色を存分につかいはじめ、光の描写というより光の効果そのものをとらえようとした。そのひじょうに明るい色調は、地中海のまばゆい陽光を感じさせる。ゴーギャンの鮮烈な南国の絵を近所の収集家のところでみたとき、彼らはフォービスムを生む主観的な色彩理論の確証をみいだした。 マティスは視覚にしばられた色彩と最終的に決別し、たんなる自然の再現ではなく、自律的な色面構成や表現のためなら、女性の鼻を緑色でぬりつぶしてもかまわないと考えた。「わたしは女性をえがくのではなく、絵をえがくのだ」とマティスはのべている。 画家たちはそれぞれ独自のやり方で、この様式の理念を追求したが、1908年ごろまでには、どの画家もこの派のスタイルに執着することはなくなっていった。色彩を個性的な絵画表現の必須の要素と確認したうえで、彼らはそれぞれ独自の方向へとむかっていった。
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