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奴隷が存在すれば、その商取引もおこなわれる。古代以来、奴隷は貿易の主要な商品のひとつだった。英語やフランス語の奴隷slave、esclaveという言葉の語源がスラブ人であるのは、これらの言葉が生まれた中世ヨーロッパにおいて、スラブ人奴隷が北方ないし東ヨーロッパからの重要な輸出品として交易されていたからにほかならない。 しかし、歴史上もっとも大規模におこなわれ、またもっとも大きな社会経済史的な意味をもった奴隷貿易は、16世紀から18世紀にかけて、ヨーロッパ人の手により多くのアフリカ黒人奴隷が南北アメリカ大陸にはこばれたことであろう。 黒人奴隷の供給地は、西アフリカのギニア湾北岸からアンゴラにいたる海岸地域であり、とくに現在のベナンとトーゴを中心とする海岸地域には、奴隷海岸の名称がのこるほどである。黒人奴隷の多くは、これらの地域のダホメー王国など、黒人王国による奴隷狩りによってとらえられて、ヨーロッパ商人に売りわたされた。
ヨーロッパ諸国では、15世紀にアフリカ大陸への航路を開拓したポルトガルがもっともはやく奴隷貿易の先鞭をつけた。16世紀には、おもに、ポルトガル領ブラジルでの砂糖プランテーションや中南米各地のスペイン植民地の鉱山における労働力として黒人奴隷がもとめられた。 疫病や過酷な待遇によって激減していたインディオ(→ アメリカ先住民)の代わりの労働力を必要としていたスペインは、みずからはアフリカに奴隷供給源をもたなかったので、アシエントとよばれる黒人奴隷供給契約をポルトガルなどの外国政府や商人とかわして、その確保につとめた。 17世紀には、オランダやイギリス、フランスが奴隷貿易に参入し、西インド諸島の砂糖プランテーション向けに盛んに奴隷を輸出した。とくにイギリスは、1672年に設立された王立アフリカ会社という特権カンパニーによる独占的な奴隷貿易には失敗したものの、スペイン継承戦争とアン女王戦争によってフランスとスペインに勝利した結果、1713年にむすばれたユトレヒト条約によって、スペイン植民地に対するアシエントを独占して、奴隷の販路拡大に成功した。
17世紀後半から18世紀にかけてが奴隷貿易の最盛期だった。全期間を通じて、アフリカからアメリカ大陸にはこばれた奴隷の総数は1000万人から2000万人と概算されているが、そのうちの3分の1が1761年から1810年の半世紀間に輸出された。 それだけの労働力を短期間にうしなったアフリカ社会のうけた打撃は大きく、その後の低開発の遠因をなしたといわれる。また奴隷船の状況は悲惨であり、劣悪な食糧と衛生状態の中での約5週間の航海の結果、死亡率は10%をこえたとされる。
奴隷貿易に従事する奴隷船は、イギリスでは17世紀にはロンドンとブリストル、18世紀にはリバプール、フランスではボルドー、ルアーブルなどを起点とした。アフリカで奴隷の対価とする綿布、武器火薬、金属やガラスの細工品、蒸留酒などをそこでつみこみ、西アフリカで奴隷を買いつけたあと、アメリカ各地にいって奴隷を売却し、砂糖、コーヒー、綿花、貴金属などの植民地物産を購入してヨーロッパにもどった。 これが当時大西洋でいとなまれた三角貿易とよばれる商業システムである。ときには数年間もかかった航海ではあったが、少なくみつもっても10%をこえる大きな利潤を奴隷商人たちにもたらした。
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