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道路

道路 どうろ Road
百科事典項目
項目構成
1 A

律令と道

本格的な律令(律令制)がつくられたのは7世紀の末から8世紀の初めである。それにともなって中央の大和政権は、諸国を支配するため、道路網の整備にも積極的であった。続日本紀(しょくにほんぎ)によれば、702年(大宝2)着工の木曽の山道開発が国家的な土木工事の最初のものといわれ、開通したのが、奈良に都をうつして間もない713年(和銅6)であった。その後、四国や東北地方へと整備がすすみ、8世紀半ばには畿内七道(きないしちどう)の諸国の駅路(えきじ)の両側に果樹をうえて、旅人の便宜をはかったとつたえられる。

1 B

畿内七道

畿内七道とは、ふつう五畿七道といわれ、律令制下の地方行政区画をさし、都に近い周辺の大和・山城・河内・摂津・和泉の5カ国を畿内に、他の諸国(60数カ国)は東海・東山・北陸・山陰・山陽・南海・西海の七道にふくまれた。この七道は都から地方へ通じる主要道路だったのである。ほかに、大中小にわける路(みち)の制度があり、次章のような分類が定説になっている。

2

古代の道

大路は、山陽道(さんようどう)京都より太宰府(だざいふ)へいたる道である。駅の数は、摂津の国3駅、豊前の国2駅、筑前の国9駅前後となっている。令制により駅ごとに馬20頭をおいた。

中路は、東山道京都より陸奥国鎮守府(むつのくにちんじゅふ)にいたる道であるが、別路として武蔵の国からは、下総(しもうさ)国、常陸(ひたち)国、磐城(いわき)国の海路にそった道があった。令制により駅馬10頭をおいた。

また中路には、東海道京都より常陸(ひたち)の国府にいたる道があり、別路として武蔵国、下総国、常陸国、磐城国の海路にそった道があった。

小路は、北陸道、山陰道、南海道、西海道の4道と、出羽路、伊勢路、美作(みまさか)、飛騨路、甲斐(かい)路、上総(かずさ)路、大和路、伊賀路の8路があった。令制による駅馬は5頭である。

平安時代の初期、802年(延暦21)には、富士山が噴火して道の往来ができなくなったので、箱根の山道がひらかれたといわれる。律令時代の初期には、渡来系(中国や朝鮮からきた人たちの子孫)の技術者や僧侶らの活躍によって、道路の開発や橋の建設、道中の並木や渡し船などの整備がすすみ、駅馬の制度も、702年(大宝2)に紀伊国(きいのくに)におかれたのが最初であった。

3

中世の道

鎌倉街道は、1192年(建久3)、源頼朝が鎌倉に幕府をひらくと、軍道の開発に力をそそぎ、盛んに周辺の山や丘などを切りひらいて道路をつくった。それが有名な大仏坂の切通しであり、ほかにも化粧坂(けわいざか)、巨福呂坂(こぶくろざか)、名越坂(なごえざか)、極楽寺坂(ごくらくじざか)などが知られている。それにならって、諸国の武士たちも道路の整備、土地の開発、河川の修復、灌漑の整備などにつとめた。とくに整備されたのが東海道で、京都と鎌倉の間の480km余りの道中に、63の宿次(しゅくつぎ)が自然にきめられたのである。これが鎌倉街道で、今も関東地方のところどころにその一部が断続的にのこっている。

3 A

室町時代の道

南北朝初期の建武の新政における駅制の改革は一時的で、足利氏の室町幕府の時代になると、南北両朝の対立抗争がつづき、陸海ともに盗賊が横行し、駅家の長(うまやのおさ)や関守(せきもり)などの姿もみられなくなった。それでも室町中期以降は、諸国の豪族が積極的に自国の境界をかためながら、自然の要害による防御のために、かえって荒廃にまかせるといった弊害もあったが、侵略のおそれのない大名は、道を補修し、橋をかけて交通の整備につとめた。

足利氏の天龍寺船貿易により、明から貨幣(銅銭)が大量にもたらされると、国内にひろく流通し、各地に小規模な市場ができ、そこへはこばれる物資の集散のために、必然的に道路も整備されていった。それとともに畿内方面では、関所が乱立し、関銭(せきせん)と称する通行税がとられるようになった。室町末期には、八幡宮の神職のたてた新しい関所が数百カ所もあったとつたえられている。また、伊勢神宮に参拝する人々は、桑名から日永(ひなが)まで、約22kmごとにもうけられた60の関所で、1文ずつを徴収されたという。これらは、権力者である公家、社寺勢力や幕府による財源として利用されたため、かえって交通や商業の発展をさまたげることになった。

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