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ローマ史

ローマ史 ローマし
百科事典項目
項目構成
I

プロローグ

ローマについての王政時代の伝承は、ほとんどが神話や後代に創作された伝説である。前8~前6世紀ごろ現在のイタリアのローマに都市国家として建国され、前6世紀末の共和政期以後にイタリア半島を統一、さらにヨーロッパ、北アフリカ、中近東に領土をひろげて強大な世界帝国に成長した。ここでは、王政期から後476年の西ローマ帝国滅亡までの歴史を概括する。

II

王政期(伝説の時代 前753~前510)

伝説によるとローマは、近隣のラテン人の都市アルバ・ロンガのヌミトル王の娘レア・シルウィアの双子の息子、ロムルスとレムスにより、前753年に建国されたといわれている。後代の伝説は、ローマ人の起源をトロイアのアエネアスにまでさかのぼらせ、アエネアスの息子アスカニウス(あるいはユルス)をアルバ・ロンガの設立者かつ最初の王としている。

ロムルス治下のサビニ人の女たちの強奪とそれにつづくティトゥス・タティウス指揮下のサビニ人との戦いは、ローマ人とサビニ人の混交がはやくからすすんでいたことを示唆し、ラムネス、ティティエス、ルケレスの3部族構成は、ローマがラテン人、サビニ人、エトルリア人(エトルリア文明)の混合からなっていたことをしめしている。

七王伝説による諸王は、初代王ロムルス(前753~前715)、宗教制度を整備したヌマ・ポンピリウス(前715~前676または前672)、アルバ・ロンガを破壊し、サビニ人と交戦したトゥルス・ホスティリウス(前673~前641)、オスティア港を建設し、多くのラテン人の町を征服したアンクス・マルキウス(前641~前616)、エトルリア人で近隣の征服とローマの公共建設活動を推進したタルクイニウス・プリスクス(前616~前578)、ローマ市域を拡大したセルウィウス・トゥリウス(前578~前534)、エトルリア人の王タルクイニウス・スペルブス(前534~前510)とつづく。最後の王タルクイニウス・スペルブスは暴君と化したため貴族たちによって追放され、王政時代はおわる。

これらの伝説からたしかめられることは、ローマが最初王により支配され、都市の発展にともない近隣の諸族と交戦したこと、エトルリア人王のローマ支配とその打倒の結果王政が廃止されたことである。当時の社会は、奴隷をのぞくと貴族(パトリキ)と平民(プレブス)の2身分にわけられていた。貴族は参政権を独占し、もとは彼らのみが軍務に服していた。平民には参政権はなかった。

王は有力貴族の長老(パトレス)の集まりである元老院(セナトゥス)から選出され、軍を指揮した。王は権力と懲罰権を象徴するファスケスをたずさえたリクトル(先導警吏)をしたがえ、裁判では最高権を行使した。元老院は王の諮問機関にすぎなかったが、元老院議員の任期は終身だったから、長老たちの権威は大きかった。

平民の富裕化にともない、伝説ではセルウィウス・トゥリウスによる軍事改革で、貴族、平民にかかわらず、すべての有産者は財産所有高に応じて等級づけられ、それぞれにわりあてられた軍務に服するようになった。この新制度は、共和政時代の参政権拡大をめぐる貴族と平民の争いに道をひらくことになる。

III

共和政期

タルクイニウス・スペルブスの追放により、共和政が成立した。

1

イタリア征服(前509~前264)

共和政期には、王にかわって毎年2名の最高位の公職者(政務官)が選出された。彼らは最初プラエトル(先頭にたつ者)とよばれたが、のちにコンスルという称号にかわった。同僚制と任期制は、独裁化をふせぐ手段であった。共和政にはいって間もなく「身分闘争」とよばれる貴族、平民間の抗争がおき、平民の参政権が拡大した。たとえば平民が元老院にはいれるようになり、彼らはコンスクリプティ(追加登録された者)とよばれた。以後元老院議員は、公式にはパトレス・コンスクリプティとよばれるようになった。

さらに身分闘争がつづいた前494年には、平民兵士の市外退去(セケッシオ)の結果、平民の権利をまもり、政務官の行為に対して拒否権をもつ護民官(トリブヌス・プレビス)が創設された。前451年~前450年には10人の委員により、ローマ最古の包括的な法典、十二表法が成文化され、前445年のカヌレイウス法により、貴族と平民の通婚がみとめられた。さらに前367年のリキニウス-セクスティウス法により、2名のコンスルのうち1名が平民にも開放され、その後も独裁官(前356)、監察官(前350)、法務官(前337)、神官および卜占(ぼくせん)官(前300)の平民への開放がつづいた。

しかしこれらの権利の拡大を享受できた平民は、ごく一部の富裕者の家柄にかぎられていた。彼らは従来の貴族と同様、ノビリス(名門)とよばれるようになり、彼らをくわえた元老院は、本来その権力は小さかったが、今や事実上の国政の最高権力機関となり、戦争、外国との同盟、植民市の建設、国家財政の管理などの重要問題を担当した。しかし、まずしい平民の境遇は改善されず、新しい貴族層とまずしい平民の対立は共和政末期の内乱における閥族派と民衆派の対立につながっていった。

この時期、ローマによるイタリア半島の軍事征服がすすんだ。すでに王政末期、ラテン人諸都市の主導権をにぎっていたローマは、エトルリア人、ウォルスキ族、アエクイ族と交戦したが、ローマをめぐる状況はしだいにきびしくなっていった。前390年にブレンヌスを首領とするガリア人が侵入し、ローマはアリア河畔で敗戦し、ローマ市の占領と放火略奪という大災厄をこうむった。しかしいっぽう、前396年のカミルス指揮下のローマ軍によるエトルリア都市ウェイイの攻略以後、前4世紀半ばまでにローマ人の植民活動などにより、エトルリア南部のローマ化がすすんだ。

他方、ウォルスキ族、他のラテン人、ヘルニキ人に対する勝利によりローマはイタリア中部を支配下におさめ、さらにサムニウム人との3度にわたる戦争(前343~前290)の結果、南部にも進出した。ローマに対抗したラテン諸都市の同盟とウォルスキ族は鎮圧され、前338年、ラテン同盟は解体された。当時北部ではエトルリア人、ウンブリア人、ガリア人により、南部ではルカニア人、ブルッティイ人、サムニウム人により反ローマ連合が形成されたが、北部の反ローマ連合は前283年に打倒され、南部の連合も間もなく敗北した。

イタリア半島南部のギリシャ人の植民市タレントゥム(現ターラント)は、ギリシャ北方のエペイロス王ピュロスに救援をもとめ、ピュロスは前280年から前275年にかけてローマとたたかったが勝利をえられずに帰国し、前3世紀前半までにローマはアルノ川ルビコン川以南の全イタリア半島の征服を完了した。

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