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項目構成
プロローグ; 南北に分裂したベトナム; 新しい戦争の始まり; 南ベトナムでの政治・社会的混乱; アメリカの介入の深化; テト攻勢; 戦争のベトナム化; アメリカでの論争; 72年の春季大攻勢; 再度のエスカレーション; 一時的な平和; 全土解放へ; 戦争がもたらしたもの
1960年代初め、ソ連と中国からハノイにおくられた支援物資が、いわゆるホー・チ・ミン・ルートをとおって南へとおくられていた。このためアメリカは、南での難局を北を攻撃することで打開しようと考えた。64年8月、北ベトナムの哨戒艇がトンキン湾でアメリカ駆逐艦を攻撃したという報告があったとして、ジョンソン大統領は北ベトナムの軍事施設への報復爆撃を命じたが、70年になって、この報告は虚偽だったことが明らかとなった。 1965年2月からアメリカ軍機による北ベトナムへの定期的な爆撃、いわゆる全面北爆がはじまった。さらに3月、アメリカ海兵隊の大部隊が、国土分断の際にもうけられた非武装地帯のすぐ南にあるダナンに上陸した。そして、部隊は次々に増援され、この年の暮れまでに派遣アメリカ軍は20万人近くになった。こうしてベトナムへの兵力補強をおこなういっぽう、アメリカは戦争終結の試みもした。同年12月、ジョンソン大統領は和平調停のために北爆を一時停止したが、調停は失敗、北爆は再開された。翌66年6月には、それまで爆撃の対象にしていなかったハノイ近郊の軍事施設やハイフォンの港への爆撃を開始した。 死傷者の数はふえつづけた。1967年11月、ペンタゴンは61年初頭からのベトナムでのアメリカ軍の死傷者は、死者1万5058人、負傷者10万9527人と発表。戦費も年間250億ドルになると推定され、和平がアメリカ社会で声高にさけばれるようになった。
米軍司令官ウェストモーランドは、前線のない戦いがつづく南ベトナムで、敵に人員補強能力をうわまわる損害をあたえるという消耗戦を基本的な戦略とした。しかし、解放側は、大量の北ベトナム軍を南の戦場におくり、多大な犠牲者をだしながらも兵力を維持し、戦局は見通しがたたなくなった。1968年初頭、北ベトナム軍と南の解放戦線軍は、多くの都市を標的とした同時攻撃、テト(旧正月)攻勢にうってでた。この攻勢はアメリカ国民に衝撃をあたえ、ベトナム戦争の行き詰まりを自覚させることになった。 アメリカ人の多くはこの戦争には勝てないと考えるようになった。1965年ごろからはじまったベトナム反戦運動は大きな高まりをみせ、68年3月31日、ジョンソンは北爆の部分的停止を表明。5月には北ベトナムとアメリカの和平会談がパリで開催され、北爆は10月に全面停止された。和平会談は69年に南ベトナム政府と解放戦線をふくむ形に拡大され、6月には解放戦線が南ベトナム共和国臨時革命政府を樹立した。
1969年、ジョンソンのあとをついだニクソン大統領は、「戦争のベトナム化」をとなえ、2万5000人のアメリカ軍を同年8月までにベトナムから撤退させることを表明。さらに6万5000人の削減をこの年の終わりまでにおこなうよう命じた。ニクソンのねらいは、サイゴン軍を訓練し兵器をあたえて強化することによって撤退した米軍の穴うめをするというもので、「ベトナム化」とは、サイゴン軍の「米軍化」ということだった。 ニクソン大統領はその一方で、後方安定のために戦争拡大もはかった。1970年4月、南ベトナム軍とアメリカの戦闘部隊がカンボジアに侵攻、戦場がカンボジアやラオスまでひろがったが、この攻撃は成功せず、解放区がかえって増加した。71年の死傷者数は、アメリカ軍の死者は70年の4221人から1380人へと減少したが、南ベトナム軍は2万1500人にのぼった。
南ベトナムのアメリカ軍は1969年に54万1000人というピークをむかえた。アメリカ国内では軍事介入が深まるにつれ、戦争についての論議が活発になっていった。反戦平和運動はひろがりをみせ、ベトナムでのアメリカ軍のおかした残虐行為、とくに68年のソンミ村での住民の虐殺事件などがつたえられると、運動は激化した。
1972年3月30日、北ベトナム軍は非武装地帯をこえてクワンチにせめこむ大規模な攻勢にでた。アメリカ軍はその報復に4月、67年以来の、北に深くはいりこむ北爆をおこなった。さらに5月、ニクソンは敵側の補給路を遮断するために、ハイフォンなどの北ベトナムの主要な港湾の機雷封鎖を命じた。空爆は鉄道へもむけられたために、北ベトナムに深刻な経済問題をひきおこすことになった。北ベトナム側はクワンチの街を4カ月半もちこたえたが、9月15日に南ベトナム軍に再奪取された。
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