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項目構成
プロローグ; 南北に分裂したベトナム; 新しい戦争の始まり; 南ベトナムでの政治・社会的混乱; アメリカの介入の深化; テト攻勢; 戦争のベトナム化; アメリカでの論争; 72年の春季大攻勢; 再度のエスカレーション; 一時的な平和; 全土解放へ; 戦争がもたらしたもの
1972年後半、極秘の和平会談が、大統領補佐官キッシンジャーと北ベトナム代表のレ・ドク・トとの間で断続的にひらかれた。会談が前進したのは、北ベトナム側が戦争の政治面と軍事面とをわけ、それまでかかげていた南のグエン・バン・ティエウ大統領の退陣要求をとりさげ、ラオスやカンボジアの状況についても同時にはなしあうという和平案の受け入れを表明したことにあった。そして10月26日に9項目の和平案が公表された。 しかし、キッシンジャーとレ・ドク・トとの会談が1972年12月4日に再開され、最終的な合意がなされようとしていた16日、突如会談は中止され、翌日ニクソンは最後の軍事的圧力としてハノイとハイフォンへの大規模爆撃を命じた。爆撃は12月18日から30日までおこなわれ、国際的な非難が高まった。
国際世論の強い非難をうけて、1972年12月30日、アメリカは北緯18度以北への爆撃を停止することを表明、翌日から実行にうつされた。翌年初め、パリでの和平交渉が再開され、その進展をみてニクソンは北ベトナムに対する爆撃の全面的中止を命じた。1月27日、パリにおいてアメリカ、ベトナム共和国、ベトナム民主共和国、南ベトナム臨時革命政府の代表が、戦争終結と平和回復のための合意文書に署名した。しかし、パリ協定では北ベトナムとアメリカの直接交戦が停止されただけであり、サイゴン政府と臨時革命政府の武力対決の図式はのこされていた。
1973年3月末までに、すべてのアメリカの戦闘兵力は撤退した。しかし、その後も2万4000人の軍事顧問が残留し、周辺諸国には3万5000人の米兵がおり、近海には第七艦隊がのこっていた。 アメリカの撤退後もサイゴン政府軍の増強がつづき、北ベトナム側は革命戦争継続をうちだした。1974年になるとふたたび戦闘が激化し、12月に北ベトナムと南の解放勢力は大規模な攻勢を開始したが、作戦は予期しないほどの成功をおさめた。サイゴン政府は多くの重要な都市を掌握できなくなり、75年3月25日にフエが占領されるまでには壊滅状態となっていた。4月30日、南ベトナムの首都サイゴンが占領され、ズオン・バン・ミン新大統領は臨時革命政府に無条件降伏し、フランスとの戦いをふくめれば、30年におよんだベトナムの独立と解放の戦いはおわった。
ベトナム戦争は現代の通常戦争の転換点となった。ベトナム戦争は人民の戦争であり、ゲリラ戦闘員は非戦闘員と簡単には区別できず、多くの一般住民がゲリラに加担した。その結果、ベトナム民衆のこうむった被害はあまりにも甚大だった。アメリカ軍の広範囲にわたるナパーム弾の使用によって多数の人々が重傷をおったり焼死した。枯葉剤(→ 生物化学兵器)によってのちにいたるまで人体に後遺症がのこり、森林は枯れ、基本的には農業国だったベトナムの環境を荒廃させた。 長年にわたる戦争によって、推定では200万人以上のベトナム人が殺され、300万人が負傷し、また数知れぬ子供が孤児になった。アメリカ軍は約6万人が死亡し、15万人が負傷した。
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