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3?~62? キリスト教の最高の伝道者にして最初の神学者。「異邦人のための宣教者」とよばれた。
パウロは小アジアのタルソス(現トルコのタルスス)の厳格なユダヤ人の家庭に生まれた。イスラエルの王にちなんでサウロと名づけられ、ユダヤの律法にしたがって、生後8日目に割礼をうけた。すべての面でファリサイ派的な律法の解釈にしたがって養育された。ディアスポラ(ギリシャ・ローマ社会に離散したユダヤ人)の中で、わかいサウロは、ヘブライ語の名前サウロと発音の似ているラテン語名パウロを通称とした。 パウロの手紙から、彼がギリシャの修辞学に精通していたことがうかがえる。おそらく、若いころにタルソスでまなんだものと思われる。だがその考え方には、ラビ(律法学者)になるために、エルサレムの高名な師ガマリエル(20~50年に活躍)のもとでユダヤの律法を正式にまなんだ影響がみられる。律法に関してはきわめて優秀な学生だった、とパウロみずからしるしている(「ガラテヤの信徒への手紙」1章14節、「フィリピの信徒への手紙」3章6節)。 やがてその熱意が高じて、パウロは初期のキリスト教会を迫害するようになった。キリスト教をユダヤの律法にそむいたユダヤ教の分派ととらえ、これを粉砕しなければならないと考えたのである(「ガラテヤの信徒への手紙」1章13節)。「使徒言行録」には、パウロがキリスト教の最初の殉教者ステファノの石打ちの刑を支持し、処刑の現場にたちあったという記述がある。
パウロはエルサレムからダマスコ(ダマスカス)への旅の途中で、キリストの姿に接し、キリスト教徒になった(「使徒言行録」9章1~19節、22章6~16節、26章12~18節)。パウロ自身はこの出来事についてかたるとき、ひとつの宗教から他の宗教への忠誠の移行を意味する「回心」という言葉を一度もつかっていない。キリストの啓示がすべての宗教の終わりを画し、それによってあらゆる宗教的な区別はなくなったと、とらえたのである(「ガラテヤの信徒への手紙」3章28節)。 パウロは、「回心」というかわりに、一貫して神に「召命された」という言い方をしている。キリスト教徒になるようにとの神の召命は、すなわち異邦人への宣教者になるようにとの召命であり、これをわけて考えることはできないととらえていた。パウロは、ペトロがしていたような、ユダヤ人に対する宣教が正しいことをみとめたが、キリスト教は全世界にむけての神の召命であること、そしてこの召命によって、ユダヤの律法にしたがう必要はなくなるのだと確信した。
「使徒言行録」の中のひろく知られている記述によれば、パウロは3回の伝道の旅をしている。手紙からは、次の3つの問題に関心をいだいて旅程をくんでいたことがわかる。 (1)伝道者としての使命感から、キリスト教がつたわっていない地域で伝道をすること。その計画は、西は遠くスペインにまでおよんだ。(2)聖職者としての関心から、問題がおこるたびに自らがつくった教会をおとずれること。数回にわたってコリントスをおとずれたのはその一例である。(3)ゆるぎない決意をもって、おもに異邦人の教会から募金をつのり、それを自身の手でエルサレムにあるユダヤ人のキリスト教会にとどけること。(3)については、パウロの真意がどこにあるのか、学者の間でもじゅうぶんには解明されていないが、彼が伝道した異邦人の教会と、パレスティナにあるユダヤ人のキリスト教会とをむすびつけたいという思いがあったのは確かである。 「使徒言行録」によれば、パウロはエルサレムで、彼に反対するユダヤ人がひきおこした暴動の後にとらえられ、最後にはローマへおくられたとされている。また同書では、パウロ自身が自らの死の可能性についてのべている(「使徒言行録」20章24節、20章38節)。彼は62年にローマで処刑されたものと思われる。キリスト教では4世紀以後、この日を2月22日とさだめている。
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