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ソビエト連邦ソビエト連邦 ソビエトれんぽう Union of Soviet Socialist Republics
百科事典項目
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1924年のレーニンの死ははげしい権力闘争をもたらした。主要な闘いは、トロツキーと当時共産党書記長だったスターリンとの間でくりひろげられた。党組織に対する統制を通じて、スターリンは党内での支持を獲得し、支配をかためていった。トロツキーは27年に共産党から除名されてアルマ・アタに流刑となり、その2年後に国外追放され、40年に亡命先のメキシコでスターリンの手先により暗殺された。スターリンは29年までには、ジノビエフ、カーメネフ、ブハーリンなど反対派を一掃して、党と国家の最高指導者としての地位を確立した。
1920年代には国家行政の全面的改革がおこなわれ、国内経済および外交関係では改善がみられた。22年末、ロシア共和国とウクライナ、ベロルシア(現ベラルーシ)、ザカフカス(現アゼルバイジャン、アルメニア、グルジア)の3ソビエト共和国がソビエト連邦を結成し、24年1月にはソ連邦の憲法が発効した。それぞれの共和国には一定の自治権がみとめられていたが、外交、国防、経済計画などは中央政府の強力な統制下におかれた。 1924年までには、おもな列強諸国がソビエト政府を承認し、ソ連との外交関係を樹立していった。日本も25年に承認した。こうしてソ連は国際会議の舞台に参加するようになったが、アメリカは、33年になってようやくソ連を承認した。
資本主義的な方法を部分的に許容した新経済政策は、1927年までにソ連経済に復興をもたらし、農業・工業ともに戦前の水準まで回復した。28年からは、第1次5カ年計画の開始とともに、計画経済という新たな時代がはじまった。5カ年計画の基本的な目的は、ソ連を農業国からすすんだ工業国にかえ、農業を全面的に集団化するなど、社会のあり方そのものを大きくかえることだった。
1930年代のソ連の政治的な特徴は、スターリンの政策に反対するとみなされたすべての人々を共産党と政府から排除した、徹底的な粛清にみることができる。大規模な粛清は、スターリン支持者だった党指導者キーロフが34年12月に暗殺されたことにはじまった。35~39年にスターリンは、反対派の疑いをかけられた人々すべてを権力の座から排除した。その結果、多くの人々が投獄され、シベリアに流刑となり、あるいは処刑された。 1936~38年に一連の公開裁判がひらかれ、共産党のかつての指導者たちが、ソ連国家の転覆をはかったとして処刑された。赤軍の高官たちも、ドイツと日本の手先として秘密裁判にかけられて処刑され、共産党員や軍人のほかにも、諸団体の指導者や知識人、企業の幹部らが粛清の対象となって収容所におくられたり処刑されたりした。大量抑圧による犠牲者数は数百万人にのぼるといわれ、ソビエト体制にとって大きな損失となった。
1931年に日本が中国東北部を占領し、ソ連との国境で日ソ両軍の緊張が高まっていった。日ソ両軍は38年に張鼓峰で、39年にはノモンハンで衝突(→ ノモンハン事件)し、ソ連軍は日本軍に大きな損害をあたえた。同じころドイツではヒトラーが政権の座について対外膨張政策をとり、ソ連の安全をおびやかしていた。これらの脅威に対抗するため、ソ連はそれまで主要な敵とみなしていたイギリス、フランスとの協調へと方針をかえ、34年には国際連盟に加入した。また、ポーランド、フィンランド、チェコスロバキアなどの諸国と条約をむすんで自国の安全を確保しようとした。 1938年にオーストリアを併合したドイツは、つづいてチェコスロバキアのズデーテン地方の割譲を要求し、イギリスとフランスはミュンヘン会談でこれを承認した。このミュンヘン協定の締結は、ソ連の集団安全保障政策が失敗におわったことをしめすものとなった。
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