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ソビエト連邦ソビエト連邦 ソビエトれんぽう Union of Soviet Socialist Republics
百科事典項目
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強大な軍事力を背景に、ソ連は東欧占領地域の政治的・経済的・社会的構造に改変をくわえた。こうした戦後のソ連の外交政策は、アメリカおよびその同盟国とソ連との間に、冷戦という全地球規模での政治的・外交的・経済的紛争をひきおこした。 ソ連の影響力が圧倒的に強かったポーランド、ハンガリー、ルーマニア、ブルガリア、アルバニア、ユーゴスラビア、東ドイツの諸国では、政治的・経済的構造がしだいに再編されていった。政治的に反対するグループは抑圧され、大土地所有者は土地をとりあげられた。また事実上すべての産業が国有化された。東欧諸国に対してソ連は、まずそれぞれの国の共産党にほかの諸政党と連立政権をつくらせた。そのうえで共産党が軍と警察といった重要なポストを独占し、しだいに反対派を排除して国家を権威主義的に統制する、人民民主主義とよばれる体制を確立した。さらにソ連は、影響下にある人民民主主義諸国の経済活動を調整するため、1949年に経済相互援助会議(コメコン)を組織した。 ソ連の東欧支配の例外は、チトーにひきいられて自力で国を解放したユーゴスラビアのみだった。ソ連の影響力を拒絶したユーゴスラビアは、1948年に共産党の国際連帯組織であるコミンフォルム(→ インターナショナル)から追放され、独自の非同盟外交路線をすすむことになった。
絶対的権力をにぎっていたスターリンが1953年3月に死去したのち、マレンコフが首相兼党書記となり、モロトフが第1副首相兼外相、ベリヤが内相に就任した。数日ののちマレンコフが党書記を辞任して、フルシチョフが先任書記の座についた(のちに第1書記となる)。これ以後の指導部は集団指導体制とよばれるようになった。このうち秘密警察(→ KGB)の長官としておそれられた内相ベリヤは7月に逮捕され、のちに処刑された。ついでマレンコフが55年に辞任においこまれ、ブルガーニンが首相に就任、この段階で党第1書記フルシチョフが権力のトップにたった。
1956年2月にひらかれたソ連共産党第20回大会でフルシチョフは、スターリンを批判した秘密報告をおこなった。その中でフルシチョフは、レーニンがスターリンを批判した遺言を紹介し、スターリンへの「個人崇拝」が党と国家に大きな損失をあたえたとのべた。さらに、無実の同志に対する大量弾圧や、独ソ戦開戦時のドイツに対する無警戒やその後の戦争指導上の誤り、外交政策の誤りに大きな責任があるとして、スターリンを批判した。 フルシチョフの秘密報告はアメリカ国務省によって暴露され公表されたため、スターリン批判はソ連の共産党員や国民だけでなく、各国の共産党や世界の世論にも大きな衝撃をあたえた。こののちさまざまな分野で「非スターリン化」がすすめられていった。
1957年にそれまでの複雑な工業管理省庁を統廃合する改革にのりだしたフルシチョフは、これに反対する党幹部とそれにむすびついたモロトフ、マレンコフ、カガノビチらのスターリン時代からの指導者を解任した。その後58年にブルガーニン首相を辞職においこんで、フルシチョフは党第1書記と首相を兼任して権力を確立し、集団指導は終わりをつげた。 フルシチョフは資本主義諸国との平和共存をとなえ、1959年にはアメリカを訪問したが、この外交政策は中国との間に緊張をもたらした。62年には、キューバの革命政権援助でアメリカとの間に核戦争の危機をひきおこすにいたり、平和共存路線は挫折した。 フルシチョフが力をそそいだ農業政策は結局失敗におわり、彼の権威は低下した。また、反対をおし切って党の役職の任期制を導入し、さらには党機関を農業担当と工業担当に2分割する改革をすすめて、党幹部の強い反発をまねいた。そのため1964年10月、共産党幹部会によって、抜き打ち的に辞任においこまれた。
フルシチョフ辞任ののち集団指導体制が復活し、党第1書記にはブレジネフ(のち書記長)、首相にはコスイギンが就任した。しかし1970年代までには、共産党を指導したブレジネフがしだいに権力を集中し、77年に国家元首を兼任するようになった。ブレジネフのもとで、77年に新しいソ連憲法が採択された。
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