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ソビエト連邦ソビエト連邦 ソビエトれんぽう Union of Soviet Socialist Republics
百科事典項目
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非スターリン化のすすむ中で、知識人たちは社会の民主化をもとめるようになったが、フルシチョフを追放した政権は自由な空間をしだいにしめつける政策をとった。体制を批判して社会の自由化・民主化をもとめて行動する人々は「異論派」とよばれるようになり、破壊活動をおこなったという理由で投獄されたり、強制収容所におくられたり、精神科病院に隔離されたりした。 もっとも有名な異論派の人物に、作家ソルジェニーツィンと物理学者サハロフがいる。ソルジェニーツィンはソ連国内で作品を出版することを禁じられ、1974年に国外追放となった。サハロフは、79年のソ連のアフガニスタン侵攻を批判して、ゴーリキー市(現、ニジニーノブゴロド)に流刑となったが、ゴルバチョフのもとで86年に流刑をとかれてモスクワにもどった。
第2次世界大戦後の冷戦の中で、ソ連は東欧諸国への支配を強力におしすすめたが、1970年代には緊張緩和がすすむことになった。
第2次世界大戦後、ソ連は国境を接した東欧諸国と密接な関係をつくりあげた。これらの東欧諸国はしばしば「衛星国」とよばれ、経済的には経済相互援助会議(コメコン)を通じてソ連の強い影響をうけた。また1955年には、米・欧の軍事同盟であるNATO(北大西洋条約機構)に対抗してワルシャワ条約機構が設立され、軍事的にもソ連の統制下におかれた。 チトーのひきいるユーゴスラビアはモスクワの指導を拒絶したが、そのほかの衛星国ではソ連の支配が強まった。スターリンの死後、ユーゴスラビアとの関係は改善にむかったが、1968年以降ふたたび悪化した。また61年以降、ソ連はアルバニアに対する統制力をうしなった。
1956年のスターリン批判は、東欧諸国に政治的混乱をひきおこした。ポーランドでは6月、ポズナニで暴動がおき、政権指導部が交替した。ハンガリーでは事態はより深刻で、10月に各地で大規模な反政府暴動がおきた。これに対して首相ナジがワルシャワ条約機構からの脱退とハンガリーの中立を宣言するや、ソ連軍は戦車を出動させてナジ政権を打倒した。
1968年のチェコスロバキアは、共産党第1書記ドゥプチェクのもとで経済改革と民主化をすすめ、「人間の顔をした社会主義」の実験をおこなっていた。ソ連はこの「プラハの春」に警告を発していたが、改革は経済分野にとどまらず、検閲の廃止と複数政党制の承認にまでいたった。これに対してソ連は干渉することをきめ、68年8月、ワルシャワ条約軍がチェコスロバキアに侵攻し、ドゥプチェク政権をたおした。 このチェコ事件は東欧諸国に対するソ連の統制を強めるきっかけとなり、それぞれの社会主義国は、他国もふくめた社会主義体制そのものに対して責任をおうという「ブレジネフ・ドクトリン」が定式化された。1980年初めのポーランドの民主化運動の抑圧の際にも、こうしたソ連の圧力が背景にあった。
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