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ソビエト連邦ソビエト連邦 ソビエトれんぽう Union of Soviet Socialist Republics
百科事典項目
項目構成
1949年に中華人民共和国が成立したときに、ソ連はこれを承認して友好同盟関係をむすんだ。その後50年の朝鮮戦争の際には、両国はともに朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)を支援した。しかし50年代後半から両国は、しだいにイデオロギー面での緊張を強めるようになった。60年代には両国関係は決定的な対立をむかえ、69年には中ソ国境地帯で武力衝突事件がおきた(→ 中ロ国境問題)。さらに72年にアメリカ大統領ニクソンが中国を訪問したことは、ソ連を強く警戒させた。76年の毛沢東の死去後も中ソ関係はかわらず、両国の対立関係がつづいたが、80年代初めには少しずつ対立が緩和にむかった。
ソ連は1950年にホー・チ・ミンのベトナムを承認し、ベトナムが南北に分断されたのちもベトナム民主共和国(北ベトナム)を支持した。ベトナム戦争時には北ベトナムを支援してアメリカと対立し、ベトナム統一後の中国とベトナムとの対立では、ベトナムを支持して中国と対立した。79年12月には、アフガニスタンの社会主義政権を援助する名目で、ソ連軍はアフガニスタンに侵攻して占領し、国際的な非難をあびた。アフリカでのソ連の影響力は、60年代にはコンゴ(現コンゴ民主共和国)とガーナで親ソ政権が崩壊したことによって弱まった。しかし70年代には、アンゴラとエチオピアで親ソ政権をもりたてることに成功した。 1951年のサンフランシスコ対日講和条約にソ連代表は署名せず、日ソ両国間には正常な関係がなかった。しかしスターリンの死後日ソ間の関係改善がすすみ、56年に日ソ共同宣言が調印されて国交が回復した。しかしこれは領土問題を棚上げしたもので、いわゆる北方領土問題は、両国関係の大きな障害のままのこされた。
ソ連はカストロが指導するキューバの社会主義政権を支援して、1962年にキューバにミサイル基地を建設してミサイルをはこびこもうとした。これに対してアメリカ大統領ケネディは、戦争も辞さない強い警告を発し、核戦争の瀬戸際にまでいたったが、結局フルシチョフが譲歩してミサイル撤去を発表した。 キューバ危機ののちソ連はアメリカとの協調路線をすすめ、1963年にアメリカ、イギリスと部分的核実験停止条約をむすんだ。その後も米ソ両国は軍縮にむけて話し合いをすすめ、72年には戦略兵器制限交渉によって、両国のミサイル保有に上限をもうけた。70年代には、軍事力の均衡を背景に、ソ連はアメリカとともにデタント(緊張緩和)外交をすすめた。 しかし1979年末のソ連のアフガニスタン侵攻をきっかけに、米ソ関係はしだいに悪化し、アメリカは、ソ連によるポーランドの民主化運動抑圧を非難した。また83年のソ連軍機による大韓航空機撃墜事件は、両国関係を緊張させた。
1982年のブレジネフ死去ののち共産党書記長となったアンドロポフは、84年に亡くなった。そのあとをブレジネフの部下だったチェルネンコがついだが、彼も翌85年に死去した。長くつづいた老人政治のあと、同年に、わかいゴルバチョフが書記長となった。
ゴルバチョフは自らの権力基盤をかためたのち、ソ連社会の根本的改革にのりだした。1986年4月におきたチェルノブイリ原発事故の悲劇のあと、ペレストロイカとよばれる改革路線が本格的にはじまった。政治・文化の面では、新たな情報公開政策であるグラスノスチ(公開制)が導入された。ペレストロイカは政治システムにもおよび、89年には新しい最高権力機関として人民代議員大会が設置され、代議員は、17年以来はじめて複数候補制の自由な選挙でえらばれた。
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