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19世紀半ばに、中国におけるアヘンの密貿易が原因でおきた清朝とイギリスとの戦争。
18世紀後半から19世紀初頭にかけて欧米列強は、新しい市場と資源の可能性をもとめ、広大な中国への進出を開始した。とくにイギリスの国策企業東インド会社は、中国貿易に精力的にとりくんだ。同社の経営は、イギリスの工業製品をインドへ、インドのアヘンを中国へ、中国の茶をイギリスへという三角貿易からなりたっていた。当時、中国国内ではアヘンの広がりが大きな社会的問題となっており、清朝政府はアヘンの輸入をたびたび禁止した。しかしイギリス東インド会社は、私貿易商人を通じてアヘンを清に密輸出しつづけ、清朝の官界にもアヘンが浸透していった。 その結果、清朝政府内にアヘン輸入の厳禁派と弛禁(しきん)派の対立が生じ、さらには清朝政府とイギリス政府の通商外交関係の緊張が高まることになった。1839年3月、清朝政府からアヘン禁絶の役目を命じられた革新的官僚の林則徐は、広州にいきアヘン厳禁の布告をだし、外国商館を封鎖した。さらにイギリスの商務監督官チャールズ・エリオットを監禁し、アヘン2万箱を海洋投棄処分にした。しかし中国全土の市場化をもくろむイギリスは、これを口実に清との戦闘準備をととのえた。
1839年9月、九竜港近くで清朝海軍とイギリス船が砲火をまじえたのをきっかけに、両国は戦争に突入した。40年6月、ジョージ・エリオットひきいる約4000人のイギリス海軍は広州、厦門を攻略、7月には浙江の定海を占領、天津港にせまった。この事態に直面し、清朝政府内では弛禁派が勢力を拡大、イギリスが要求した、アヘン貿易の許可と焼却されたアヘンの賠償、香港の領土割譲などに対して、直隷総督琦善(きぜん)を交渉にあたらせた。しかし琦善がイギリスの要求に全面的に屈服して仮協定をむすぶと、政府は彼を罷免した。 1841年5月、イギリス軍は再度広州を攻略、アモイ、寧波(ねいは:ニンポー)と北上して清朝防衛軍を撃破、42年6月に上海を占領、7月には鎮江を鎮圧した。ここにいたって清朝政府は全面的にイギリスに屈服、8月29日に南京条約がむすばれ、アヘン戦争は終結した。条約には香港の割譲、賠償金2100万元、上海・寧波・アモイなどの開港と通商、公行制度の撤廃などがもりこまれ、イギリスはさらに中国へ侵出する大きな足がかりをえた。
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