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1918年にオーストリア・ハンガリー二重帝国が解体する中で独立し、93年1月1日にチェコ共和国とスロバキア共和国に分離独立するまで存在した、ヨーロッパ中央部の連邦国家。 第1次世界大戦中、チェコ民族主義の指導者マサリクとベネシュは、スロバキアの指導者シュテファーニクや協商国の支持をえて、共和国設立にむけ臨時政府を樹立した。そして1918年10月18日、アメリカにいたマサリクがチェコスロバキアの独立を宣言すると、ただちにプラハでチェコスロバキア共和国が設立された。新共和国にはボヘミア、モラビア、シレジア(シロンスク)の一部、スロバキアがふくまれた。
新生チェコスロバキアは、西ヨーロッパ型の民主主義共和制国家で、議会政治、普通選挙、人権の保障を特徴とするものだった。第1共和国(1918~38)は、老マサリクと若いベネシュの2代の大統領によってになわれた。第1次世界大戦後、第1共和国のほぼ全期にわたって、農民党を中心にした5政党による連立政権がつづいた。少数派である国内ナチスの運動や1921年に設立された共産党などは、政権に参加することはなかった。 旧オーストリア・ハンガリー二重帝国の中でゆたかな産業資源と肥沃な土地をひきついだチェコスロバキアは、多くの民族を内にふくむ国家となった。同国を構成する「2大民族」チェコ人とスロバキア人が、全人口の67%を占め、他は少数民族によって構成された。ボヘミア地方北部のスデーティ山脈に集中して居住していたドイツ人は全国民の22%を、ルテニア人(ウクライナ人)は6%を、ハンガリー人は5%を占めた。また、チェコ人とスロバキア人の関係は良好ではなかった。 マサリクは、1918年にピッツバーグで、大戦後はスロバキア人の自治をみとめるという協定をスロバキア系アメリカ人の代表とむすんだが、1920年の憲法は、チェコスロバキアは中央政府をもち、「チェコスロバキア語」をはなす単一のチェコスロバキア人からなる統一国家とさだめ、約束されたスロバキア人の自治とはほど遠いものだった。オーストリアの支配下にあったチェコとはことなって、ハンガリーによる抑圧的支配をうけていたスロバキアは、文化的・経済的にたちおくれており、またプロテスタントの優勢なチェコと対照的にスロバキア人はカトリック教徒が多いことなどが、新生共和国内のチェコ人優越政策の要因となった。
近隣のドイツ、オーストリア、ハンガリー、ポーランドからの政治的圧力をさけるため、チェコスロバキアは、イギリス、フランスとの友好関係、さらには国際連盟を重視した。1920年と21年には、ユーゴスラビアとルーマニアとの間でハンガリーに対抗する「小協商」をむすび、25年にはフランスと相互防衛条約を、また、35年にソ連との間でも同様の条約をむすんだ。
1933年にドイツでヒトラーひきいるナチスが政権を獲得すると、ズデーテン地方の300万人のドイツ人は、ズデーテン・ドイツ党を結成し、その指導者ヘンラインは、ヒトラーのあとおしでチェコスロバキア政府にドイツ人の自治を要求した。彼はチェコスロバキア政府のだした妥協案をけって、国境線を変更してドイツ人少数民族がドイツの直接的保護におかれるようにさらなる要求をくわえた。 1938年3月のドイツによるオーストリア併合のあと、ヘンラインは要求をエスカレートさせたが、それはズデーテン・ドイツ人の実質的な独立にひとしいものだった。イギリス政府の仲介者ランシマンの圧力をうけ、チェコスロバキア政府は、さらなる譲歩をかさねたが、ズデーテンの分離はみとめなかった。9月12日、ヒトラーは公式にズデーテン在住ドイツ人による自決の支持を表明、いっぽうイギリスとフランスは戦争回避の目的をもって、チェコスロバキアに調停案をしめし、それをうけいれるようにせまった。 チェコスロバキア政府は英・仏政府の支持をうしなうことをおそれ、人口の50%以上がドイツ人からなる地域をドイツに割譲するようにというイギリス首相チェンバレンの要求をうけいれた。9月29日から30日にかけて、ミュンヘンで英・仏・独・伊4国間の会談がおこなわれ、そこで調印されたミュンヘン協定の結果、チェコスロバキアは西北部の国境地帯をうしなった。それはまた、最良の自然の要塞と防衛線、さらに豊富な経済資源をうしなうことを意味した。 このときハンガリーとポーランドはチェコスロバキアの弱みにつけこんで、長年の紛争の種となっていた国境地帯の割譲をもとめる最後通牒をつきつけた。結局、チェコスロバキアは480万の人口をうしなったが、その4分の1は、チェコ人とスロバキア人だった。
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