検索
エンカルタ内で検索 : ドナウ川

Windows Live® の検索結果

  • ドナウ川 - Wikipedia

    ドナウ川 (ウクライナ語: Дунай, スロヴァキア語: Dunaj, セルボクロアチア語: Dunav, ドイツ語: Donau, ハンガリー語 Duna, ブルガリア語: Дунав, ルーマニア語: Dunăre 、英語、フランス語: Danube )は、 ヴォルガ川 に次いでヨーロッパで2番目に長い 大河 である。

  • ドナウ川 @ 衛星写真集

    ルーマニア←ウクライナ←ブルガリア←ユーゴスラヴィア←クロアチア←ハンガリー←オーストリア←ドイツ (国境を流れるため、順序はおおよそ)

  • 美しき青きドナウ

    ヨーロッパの中部・東部を約 2,900kmにわたって流れるドナウ川。ドイツの黒い森を発したドナウ川は、オーストリア・スロヴァキアを経て、ハンガリーを流れる。更にセルビア・ルーマニアを経て、ウクライナで黒海に注ぎ込む。

すべての検索結果 :
Windows Live® の検索結果

ドナウ川

ドナウ川 ドナウがわ Donau
百科事典項目

ヨーロッパ南東部をながれる河川。ドイツ南西部シュバルツバルトに源を発し、ほぼ東へながれて、ルーマニアで黒海にそそぐ。ボルガ川につぐヨーロッパ第2の川で、全長は約2850km。

ローマ時代にはダヌウィウスとよばれ、英語ではダニューブ川、セルビア・クロアチア語とブルガリア語ではドゥナフ川、ルーマニア語ではドゥナリヤ川という。

ドナウ川は、ヨーロッパの大河川の中で、唯一西から東にながれる。河口のデルタ(三角州)地域は、あれはてた沼地と低湿地で、ところどころに木でおおわれた隆起がある。堆積物(たいせきぶつ)のために水深が浅く、また流路がたびたび変化するため、大型船の航行は不可能だが、外洋船でもルーマニアのブライラまでなら航行が可能である。それより上流は1000t級の河川用の船ならばドイツのレーゲンスブルクまで、100t級ならウルムまで約2575kmの距離にわたって航行できる。

約300にのぼる支流のうち、レヒ川・イーザル川・イン川・モラバ川・バーハ川・ラーバ川・ドラバ川・ティサ川・サバ川・プルート川などおよそ60は航行可能である。流域面積が77万7000km²以上にもおよぶドナウ川の流域には、ドイツ、オーストリア、スロバキア、ハンガリー、セルビア、クロアチア、ボスニア・ヘルツェゴビナ、ウクライナなどの国や地域の一部がふくまれる。

ドナウ川沿いのおもな都市は、ドイツのウルム、レーゲンスブルク、パッサウ、オーストリアのリンツウィーン、スロバキアのブラチスラバ、ハンガリーのブダペスト、セルビアのベオグラード、ルーマニアのガラツィとブライラなどである。マイン川ライン川オーデル川とは運河でむすばれており、黒海と北海とをつなぐ交易ルートになっている。オーストリアのリンツとウィーンの間にあるドナウの峡谷は、景勝地として知られる。

ドナウ川は、西ヨーロッパと黒海をむすぶ重要な航路として、古くから利用されていた。ローマ時代には帝国領域の北限となった。中世初期になると、ゴート族フン族アバール人スラブ人マジャール人などがドナウ川をこえて、ローマ帝国へ、そして後にはビザンティン帝国へと侵入した。十字軍遠征の際には、ビザンティン帝国へいたる幹線路であり、さらに、そこから聖地までをむすぶ主要な交通路であった。

14世紀末にはじまるオスマン帝国の中央ヨーロッパと西部ヨーロッパへの進出にも利用された。19世紀には、ドイツの工業中心地とバルカン半島の農業地域をつなぐ交易ルートとなった。この時期には、中流と上流の大半がオーストリア帝国に、下流は衰退していくオスマン帝国に属していた。

クリミア戦争の終結にともなう1856年のパリ条約によって、ドナウ川デルタ地域を管理するヨーロッパ・ドナウ委員会が設立され、船舶の航行を容易にするために、デルタ地域と下流で改良工事がおこなわれた。90年代には、「鉄門」として知られる峡谷部分に新水路がもうけられた。

第1次世界大戦後のベルサイユ条約では、ヨーロッパ・ドナウ委員会が承認され、さらに国際ドナウ委員会が発足した。第2次世界大戦中、これらの委員会はナチス・ドイツによって廃止され、1940~44年には、ドイツがドナウ川全域を支配した。第2次世界大戦がおわると、ソ連とドナウ川沿岸の東欧諸国はドナウ委員会をつくり、オーストリアは60年に、西ドイツは63年にこの委員会に加入した。

1980年代に、スロバキア南部のドナウ川沿岸にガブチコボ・ダムの建設がはじめられた。このダムの建設によってドナウ川の流路が北方に変更されたため、90年代の初頭には、ハンガリーとスロバキアの間で政治的な緊張が高まった。

この計画は、もともとチェコスロバキア、ハンガリー、オーストリア3国による共同プロジェクトだったが、環境保護派などによる政治的な圧力をうけてハンガリーとオーストリアが撤退し、チェコスロバキアの解体にともなって、チェコも手をひいた。スロバキアは、ハンガリー政府の強硬な抗議にもかかわらずダムを完成させたが、1995年に、より多くの水量を下流に放流することでハンガリーと合意した。

項目内で検索
項目全体を印刷
項目の URL をメールで送る




© 2008 Microsoft