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国の行政をになう最高の合議制機関。通常は、立法府の多数党や連立党派の議員によって構成される議院内閣制の内閣をさし、その長を内閣総理大臣(首相、総理、宰相)という。なお、行政府と立法府が分離され、かつ行政府と立法府が対等とされる大統領制の場合も、大統領の助言スタッフ機構として、各省長官ほかによる内閣が存在している。
内閣の原型はイギリスにはじまる。当初、内閣は国王に助言する枢密院の主要メンバーの合議機関として出発した。しかし国王にかわって議会がしだいに政策決定における優越的地位を獲得し、さらには政党も発達したことによって、内閣の構成は議会多数党の有力メンバーによって形成されるようになった。こうして議会に基礎をおく現在の内閣が確立してきた。→ イギリス議会 イギリスにおける内閣は、その行動に対して連帯して責任をおうという慣例を確立してきた。これは、内閣の維持は議会の支持に依存し、議会が内閣不信任案を可決すれば総辞職をするか、議会を解散し選挙にうったえて国民に信を問うかしなければならないことを意味する。 しかし、今日では二大政党制をとり、党所属の議員に対する規律も厳格であるため、議会与党の主要メンバーからなる内閣は安定している場合が多い。 内閣は、立法府と行政府の間をつなぐ役割をはたし、両部門の調整という役割もになっている。具体的には、まず、議会に提案される政策案の最終決定権を有する。一方、最高行政機関として議会が議決した政策に拘束されてもいる。そして内閣は、政府機構の頂点に位置するところから、各国家行政省庁の諸活動を国全体の視点から調整し、行政領域や予算の分配もおこなっている。
アメリカ合衆国の大統領制下の内閣は、憲法規定に根拠をおくものではなく、慣例に依存した制度である。初代大統領ジョージ・ワシントンは、各省庁の長官と内閣で会合することは必要であるとみとめていたが、内閣とその構成メンバーに対する考えは、各大統領によってかなりちがっていた。ある大統領は内閣を召集はしたが、きまりきった問題だけを議論し、ある大統領は内閣に大幅に依存し、助言と支持をもとめた。 大統領制下の内閣とイギリスの議院内閣制下の内閣の最大の違いは、アメリカの場合は、行政権は憲法上大統領ただひとりに属し、ほかの内閣メンバーは大統領にだけ責任をおうことになっている点である。 現在のところ内閣の構成員は、14の連邦政府省庁の長官からなっている。最近では官僚待遇とされて、大統領の諮問機関となり、アメリカの国連大使、人事・予算局長官(The Director of The Office of Management and Budget)もくわわっている。 大統領制下の内閣は、議院内閣制とことなり、政府の機関としてはそれほど重要な役割をはたしているとはいえず、大統領は内閣の助言を完全に無視してもよいことになっている。
日本では、1867年(慶応3)に徳川幕府から天皇に大政奉還があり、同年、王政復古の大号令がくだされた。これにより、摂政・関白ならびに幕府の制度は廃絶され、総裁・議定・参与の三職の制がしかれた。その後、68年(明治元)の政体書にもとづいて官制の改革がおこなわれ、太政官制がとられた。 当初、太政官は7官からなり、立法を議政官、行政を行政官・外国官・会計官・軍務官・神祇官、司法を刑法官に担当させた。太政官制はさらに、神祇官・太政官・6省の制度、ついで太政官・8省の制度へと移行していった。太政官は、正院(最高官庁で、太政大臣・左大臣・右大臣・参議により構成)、左院(立法を担当、のちに元老院、帝国議会となる)、右院(行政各省の協議機関)となった。 そして、正院と右院を基盤とした本格的な内閣制度は、1885年、明治憲法(→ 大日本帝国憲法)制定(1889)に先だって導入された。これにより内閣は、内閣総理大臣のほか、外務・内務・大蔵・陸軍・海軍・司法・文部・農商務・逓信の各大臣によって構成されることになった。宮内省・宮内大臣は内閣にはふくまれず、宮中につかえるものとされた。 しかし、1889年に制定された大日本帝国憲法には、内閣に関する規定はなく、天皇が統治権を総覧し、行政権は天皇の大権に属していた(4・6条)。そのため、各行政主務大臣たる閣僚は、それぞれ天皇を単独で輔弼(ほひつ)し、その責任をおうことになっていた(55条1項)。内閣総理大臣の任命は、天皇の大権事項であるが、他の国務大臣については、内閣総理大臣からの推薦をうけて、天皇が任命した。 とはいえ、内閣総理大臣はあくまでも「同輩者中の首席」であって、内閣総理大臣の各閣僚に対する指揮監督権も弱体であった。また、内閣は帝国議会に対して連帯責任をもつものではなく、国務大臣はみずからの判断で、いつでも貴族院・衆議院に出席して発言することができた。 現実には、天皇を輔弼する立場から行政権を行使する内閣に対しては、元老グループや枢密院、さらに統帥権を楯にする軍部などが制約をくわえたため、内閣の権限を行使するには大きな困難がともなった。 明治末期、大正期、昭和初期には、民主化を要求する世論の高まりと政党の発展によって疑似政党内閣制も実現しかけた。しかし1929年の世界大恐慌(→ 恐慌)をきっかけとする内外情勢の激動にともなって軍部の政治進出が露骨となり、政党内閣は崩壊した。 結局は、明治憲法にもとづく各統治機関が分権割拠の形になっていたため、天皇を補佐して重要な国策を決定していた元老システムが西園寺公望を最後に機能しなくなると、軍部の独裁をおさえることはできなかった。そして、日本は第2次世界大戦に敗北し、「明治国家体制」は崩壊した。
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