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オスマン帝国

オスマン帝国 オスマンていこく Osman
百科事典項目
項目構成
I

プロローグ

アナトリア(小アジア)北西部からおこった、オスマンを族長とするトルコ系の戦士集団によって1299年に建設されたイスラム帝国で、1922年まで存続した。トルコ人やアラブ人などからなる多民族国家で、キリスト教徒やユダヤ教徒にも信教と自治がみとめられていた。

II

帝国の拡大と繁栄

初代君主オスマン1世(在位1299~1326)は、ビザンティン帝国を圧迫し、自国の領域を拡大したが、第4代君主バヤジト1世(在位1389~1402)が、1402年のアンカラの戦ティムールにやぶれ、王朝は一時滅亡の危機にみまわれた。復興後の53年、メフメト2世(在位1444~46、51~81)ひきいるオスマン軍はコンスタンティノープル(イスタンブール)を占領、ビザンティン帝国をほろぼした。さらに、第9代君主セリム1世(在位1512~20)は、1517年にシリア、エジプトを征服してマムルーク朝をほろぼし、メッカメディナの管理権を掌握することによって、イスラム教徒の保護者としての地位を確立した。

16世紀、第10代君主スレイマン1世(在位1520~66)の治世に王朝は最盛期をむかえ、ハンガリーを服属させたのにつづいて、1529年にはウィーンを包囲し、ヨーロッパ諸国をおびやかした。以後バルカン、東欧、アフリカ北岸、イランをのぞく西アジアに領土は拡大された。国内ではティマール制(軍事封土)と官僚制を基礎にスルタンを中心とした中央集権的帝国を樹立し、経済、文化も発展した。ビザンティン帝国を滅亡させて改名し新首都としたイスタンブールは中継貿易により繁栄した。スレイマン1世は36年にフランスにカピチュレーション(通商特権)をあたえ、その特権はその後イギリス、オランダにもみとめられた。

III

帝国の衰退

しかし17世紀末からオスマン朝の衰退がはじまり、ハンガリーの大部分をオーストリアに、18世紀後半には黒海北岸をロシアにうばわれた(ロシア・トルコ戦争)。19世紀の前半にはタンジマートとよばれる西欧化運動がおこったが、専制政治体制はなお強力であった。被支配民族の独立運動も激化し、2世紀にわたって断続したロシア・トルコ戦争にやぶれたことによって、ヨーロッパ領をほとんどうしなった。

1908年に青年トルコ党の革命が成功し、立憲政治が成立したが、14年にはじまった第1次世界大戦でドイツの同盟国として参戦し敗北した結果、20年にセーブル条約を強いられてバルカンとアラビア半島、アナトリアの東部および南部を連合国と他の諸民族に譲渡することとなり、アナトリアだけの一小国家に転落した。

IV

帝国の滅亡

ケマル・パシャ(のちケマル・アタチュルク)一派はセーブル条約を不服とし、オスマン朝政府の打倒と外国勢力の追放をさけび、民族独立運動をおこした。この独立戦争中にケマルはトルコ国民党を結成し、アンカラに国民政府を樹立した。そして、1922年のトルコ革命によってスルタン制は廃止され、ここにオスマン帝国はほろんだ。

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