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皇帝とは、ヨーロッパにおいては王国や民族をこえた最高支配者の称号であり、その支配領域は帝国とよばれる。しかし中国においては帝国という言葉の用法はないなど、それらの言葉の内容は時代や地域によりさまざまである。
ヨーロッパにおいて皇帝という称号の起源となったのは、前27年に、元首政(帝政前期)を開始し、事実上の初代ローマ皇帝となったアウグストゥスが、みずからの肩書きの一部とした「インペラトルimperator、カエサルcaesar」である。 インペラトルとは、命令する者、すなわちローマ軍最高司令官の意味であり、カエサルとは、アウグストゥスがその養子相続人となったガイウス・ユリウス・カエサル(英語ではシーザー)の家名である。前者からは、英語のエンペラーemperorやフランス語のアンペルールempereurが、後者からは、ドイツ語のカイザーKaiserやロシア語のツァーリtsar'が生まれた。 元首政の時代には、共和政の制度や建て前が残存し、事実上は独裁的な権力者 = 皇帝だったアウグストゥスも、市民の第一人者という意味の「元首」と称した。しかし、284年に即位したディオクレティアヌス帝にはじまる帝政後期には、専制君主政が確立し、皇帝は名実ともに地中海世界を統治する世界帝国ローマの最高支配者となり、その神聖化すらはかられた。そして、313年のミラノ勅令によってキリスト教を公認したコンスタンティヌス1世のもとで、キリスト教が皇帝の支配理念のひとつとしてつけくわわった。
その後、395年にローマ帝国が東西に分裂し、476年に西ローマ帝国が滅亡した後には、バシレウスbasileusというギリシャ語でいいあらわされる東ローマ( = ビザンティン)皇帝が、1453年の滅亡時まで政教の全権を支配し、ただ1人の正統なローマ皇帝としてその権威を主張した。
これに対して、西ヨーロッパでは長らく皇帝があらわれなかったが、教義問題でビザンティン帝国と対立し、有力な世俗権力の後ろ盾を必要としていたローマ教皇レオ3世が、800年のクリスマスの日にカロリング朝フランク国王であるカール大帝を「皇帝」として戴冠させてしまった。このカールの「皇帝」を、カール自身や教皇、ビザンティン皇帝がそれぞれどのように理解していたかについてはさまざまな議論があるが、少なくともそこでは、キリスト教的な要素が大きな位置を占めていたことは確実である。 以後、中世西ヨーロッパにおける皇帝は、ローマ教皇や都市ローマの保護者であるのみならず、キリスト教徒の共同体全体の守護者としての立場をとるようになった。以後、皇帝がローマにおいて教皇の手によって戴冠される習いとなったことは、両者の協力関係をしめしているが、その一方で、皇帝と教皇のどちらが上位にたつかという微妙な問題を生みだすことにもなった。 カール大帝の息子であるルイ敬虔(けいけん)帝(ルートウィヒ1世)の時代には、彼の死後に、カロリング「帝国」がゲルマン古来の分割相続の原則によって複数の息子たちの間で分割されることがはやくから予想されていた。このため、そのような分割を懸念するランス大司教ヒンクマールらの教会理論家たちによって、皇帝や帝国の普遍性や皇帝のキリスト教的使命についての理論が発展した。 しかし、843年のベルダン条約によってフランク王国が予想どおり3分割されると、皇帝位はカロリング家の諸国王の間を転々とし、名目的な称号にすぎなくなった。
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