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皇帝

皇帝 こうてい Imperator:Emperor
百科事典項目
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4

神聖ローマ皇帝

カロリング朝の家系断絶後、962年に、ザクセン(オットー)朝(ザクセン)ドイツ国王であるオットー1世が教皇ヨハネス12世の手により戴冠されて皇帝位についた。以後、多くのドイツ国王が皇帝として即位し、その支配領域が「神聖ローマ帝国」とよばれるが、そのような名称が実際にあらわれるのは13世紀半ばのことである。

オットー1世の孫で、ビザンティン皇女を母にもつオットー3世の時代には、「ローマ帝国の復興」という理念がもっともはっきりと追求された。かつてアウグストゥスの宮殿があったローマのパラティヌスの丘に皇帝宮殿がたてられ、そこを古代風の帝国支配の中心たらしめんとしたのである。

ザクセン朝につづくザリエル朝時代には、叙任権闘争がおこり、聖職叙任権をめぐって皇帝とローマ教皇が対立する過程で、キリスト教世界のリーダーシップも同時にあらそわれた。その結果、少なくとも教権に関する教会聖職者の叙任権がローマ教会にあることが確認された。また同じころ、ドイツ王国内において諸侯に対する皇帝の優位がうしなわれたこともあって、13世紀初頭には教皇権の皇帝権に対する優位が明らかとなった。教皇インノケンティウス3世などは、皇帝選挙にまで介入し、皇帝承認の権限を主張した。

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皇帝権の相対化

しかし、14世紀以降、ドイツ国王は教皇支配からの独立をめざし、1356年の金印勅書によって7名の選定侯によるドイツ国王 = 皇帝の選挙の原則が確立されて、皇帝即位に関する教皇の関与は事実上消滅して、教皇による戴冠式すら必要ではなくなった。

他方、オットー1世以後のドイツ王国では、皇帝といえども実質的にはドイツ国王にすぎないという現実と、普遍的支配者としての皇帝理念とが対立せざるをえなくなってゆく。とりわけ皇帝理念はローマとイタリアの保護をもとめたため、歴代の皇帝はイタリア遠征と支配をくりかえした。

それは、シチリア王とエルサレム王でもあったシュタウフェン朝フリードリヒ2世時代(皇帝在位1220~50)に頂点に達したが、彼の死後は皇帝のイタリア半島における支配圏は事実上消滅した。金印勅書によってさだめられた選定侯がいずれもドイツの聖俗大諸侯であるという事実は、そこでえらばれる皇帝が、もはやドイツの国内統治にしかかかわらないことをはっきりとしめしていた。

また中世後期のヨーロッパ各国で、それぞれに中央集権化が進行し、国民国家が形成されてゆく中で、キリスト教徒の共同体に対する責務もふくめて、皇帝と各国の国王は対等の政治的支配者であるという理論が形成され、それまでの普遍的皇帝権が相対化してゆく傾向がみられた。

たとえば14世紀のフランス王国では、「フランス国王は、その王国内においては皇帝である」というような法諺(ほうげん)が成立していた。また1378年のパリにおけるフランス国王シャルル5世と皇帝カール4世の会見などの機会には、フランス側は、両者が対等であることを明らかにするようにつとめたのである。

また先が閉じた王冠や十字架がついた宝珠など、元来は皇帝だけがもちいるものとされた標識も、各国の国王が模倣してもちいるようになった。そのような皇帝権相対化の事情は、西ヨーロッパだけでなく、のちにビザンティン帝国を継承したとするロシア皇帝などにもみることができる。

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普遍的支配理念の消滅

13世紀後半には、シュタウフェン朝断絶後の皇帝位をめぐってドイツ諸侯が対立し、皇帝が選出されないという大空位時代(1256~73)があり、ドイツにおいても皇帝や帝国の称号と権威は内実を欠くものとなったことがはっきりしてゆく。こうして14世紀以降、西ヨーロッパでは、皇帝位は依然としてドイツ国王によって継承されてゆくものの、普遍的政治権威ないしキリスト教共同体の守護者としての内容はうしなわれていった。

1806年に神聖ローマ帝国が崩壊したのちには、ハプスブルク家ホーエンツォレルン家が皇帝位を主張し、フランスにおいてもナポレオンとその甥(おい)ナポレオン3世が皇帝を名のった。またイギリスでも、ビクトリア女王は、植民地帝国については皇帝の称号をもちいた。しかし、この段階にあっては、もはや古代や中世半ばまでの皇帝のもっていた普遍的支配者理念は消滅しており、たんなる複数の王国や民族の支配者であることを主張する称号にすぎなくなっていた。

III

中国の皇帝

1

王と天子

中国では、前3世紀にあらわれた始皇帝以来、20世紀初めの清王朝の滅亡にいたるまで、歴代の各王朝の君主を「皇帝」と称してきた。それ以前の、歴史的に確認されるもっとも古い殷王朝の君主たちは「王」と称し、殷の王は「帝」とよばれる天上の至上神を祭り、亀甲(きっこう)や獣骨をやいてできるひび割れをもちいた占いによって政治をおこなった(甲骨文字)。王は政治的な指導者であるとともに、祭祀(さいし)の主宰者であった。

殷にかわったの王は、天上を支配する「帝」の命、すなわち天命をうけて地上を支配すると考えられ、「天子」という称号が生まれた。「天子」という言葉は、西周時代の金文にすでにあらわれる。

西周がおとろえて春秋時代(春秋戦国時代)になると、南方の有力勢力であるなどの支配者も王と称するようになり、戦国時代にはいると強国はいずれも王の称号をもちいた。また、春秋時代に孔子儒教をおこすと、儒学の流れの中で天命をうけた王者をめぐる「王道」の理論がかたちづくられ、とくに孟子は、王が天命にそむく行いをすると、天帝はあらためて他の徳のある者に天命をあたえて王とするが、その天命は大規模な反乱のような事態をふくめて人民の声にあらわれるという「易姓革命」の考えを主張した。

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皇帝の登場

戦国時代の戦乱をへて、秦王の政(せい:のちに始皇帝)は、前221年にはじめて中国全土を統一し、中央集権的な統一王朝をうちたてた。政は丞相(じょうしょう)の王綰(おうわん)らに、新しい広大な国に君臨するみずからの称号を論議させた。すでにもちいられてきた王や天子以上の権威をしめす言葉がもとめられた。王綰らは古代に「天皇」「地皇」「泰皇」の「三皇」があったから「泰皇」がよいと奏上したが、政はみずから「皇帝」という言葉を採用して最高支配者の称号とした。

「帝」は、もともと天上にあって自然、農耕および人間世界のすべてを支配する最高神をさし、上帝ともよばれた。この言葉を王の尊称として転用する例としては、殷の時期にすでに王の死後に「帝乙」などとよんだり、周代になると、伝説上の古代の帝王を「帝堯」、「帝舜」などと称したり、伝説的な「五帝」の説話がかたちづくられたりしていた。また、戦国の諸侯はそれぞれ王を称して覇をあらそったが、他の王にまさる権威を誇示するために「帝」をたたえる場合もあった。

「皇」という言葉は、神格化された祖先をよんだり、または上帝に対する尊称としてもちいられ、「尚書」の「呂刑編」のように、伝説の聖天子である黄帝や帝堯を意味する言葉として「皇帝」の語をつかう事例もあった。

このように、「王」に代わる「皇帝」の用例はすでにないわけではなかったが、地上の最高権力者を正式に「皇帝」とよぶとさだめたのは、やはり秦の始皇帝が初めてであった。彼は太古の伝説的な「三皇五帝」にもまさるみずからの空前の功業と権威を誇示する称号として、「皇帝」の名号を採用したのである。

さらに始皇帝は、帝位を2世皇帝、3世皇帝、そして万世へとつたえることとし、皇帝専用の言葉(自称を「朕」、命を「制」、令を「詔」とするなど)や、皇帝のおこなう儀礼や儀式にもっぱらもちいられる制度や文物などをさだめた。また始皇帝は王侯を廃止して郡県制を全土に広げ、配下の官僚を各地に派遣して支配した。

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