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項目構成
しかし、始皇帝が死ぬと秦は反乱の中で滅亡した。「楚王」を称した項羽や「漢王」劉邦などの有力勢力があらそった末、項羽をくだした劉邦によって再度全土が統一された。劉邦は「王の中の王」として「皇帝」に推戴され、漢の高祖となった。皇帝となった劉邦は一族や功臣たちを「王」に封ずる郡国制を採用した。これは、周の封建の制度を部分的に復活したものであった。 漢の高祖以後、皇帝の称号が定着した。天命をうけた者の称号として天子という言葉ものこり、皇帝は天の権威を代行、表象する祭祀者としては天子であり、天命をうけて世俗世界に君臨する統治者としては皇帝であった。同じ君主が、宗教的な場面に応じた天子としての顔と、政治的場面に応じた皇帝としての顔を同時にもったのである。 また上述したように、始皇帝は、皇帝が各地に官僚を派遣する郡県制をしいたが、漢の高祖が郡国制にもどしたように、とくに新しい王朝の草創期には有力者を王に封ずる例が歴史上くりかえしあらわれた。皇帝権がこうした有力者におびやかされることもあって、三国時代をふくむ魏晋南北朝時代には、有力な豪族や門閥貴族の勢力が強く、皇帝はしばしば有徳の者に帝位をゆずることを意味する「禅譲(ぜんじょう)」などの理由で帝位をうばわれた。また仏教勢力が皇帝崇拝を否定する場合もあり、皇帝権は絶対的に強いものではなかった。 唐代末から五代十国の戦乱をしずめて再度中国を統一した宋の太祖趙匡胤は、科挙官僚による支配体制を確立して、皇帝権を強化した。門閥貴族勢力は退場し、「読書人」や「士大夫」と通称された科挙をめざす地主層が、社会の支配階層を形成した。これがその後の元、明、清の王朝にうけつがれた。
また、天を中心としてくみたてられた王朝の秩序は、天—皇帝(天子)—人民という階層的な上下関係を形成したが、この秩序は同心円的に徳がおよび広がっていくかたちで直轄地域の外部の周辺諸国や民族にも波及するものと観念された。それゆえ、皇帝を頂点とする中華の秩序には、近代的な国境のような境界の観念はなく、「帝国」という言葉の用法もなかった。 天下万国をおさめる皇帝の徳をしたって遠方から朝貢(→ 朝貢貿易)する者は「王」として冊封(→ 冊封体制)され、皇帝に臣従して朝貢の使節を皇帝のもとにおくると考えられた。こうして中華皇帝を中心とする広域的で重層的な地域秩序が形成された。このような冊封、朝貢のシステムは、清朝の末期まで存続したが、日清戦争によって最終的に崩壊した。
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