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1992年9月に採択され、93年1月の独立とともに発効した新憲法は、スロバキアを議会制民主主義国家と規定している。国家元首は大統領で、任期は5年、当初は議会によって選出される間接選挙制だったが、99年に直接選挙制となった。首相は大統領によって任命される。 立法権は一院制の国民議会が有する。国民議会は定員150名で、比例代表の直接選挙でえらばれる。議席をえるには、得票率5%以上が必要である。任期は4年。司法制度は最高裁判所の下に郡裁判所、地方裁判所をもつほか、憲法裁判所がある。 スロバキアは2万195人の兵力をもつ(2004年)。18歳以上の男性に兵役義務があったが、2006年から募集制に移行した。
スロバキア人は、1918年まで独立国家をもたなかった。10世紀初頭にマジャール人の支配下に入って以来1000年間、政治的・文化的発展はさまたげられ、小作農としてくらしてきた。
第1次世界大戦中、チェコ民族主義の指導者だったマサリクとベネシュは、ミラン・シュテファーニクなどスロバキアの指導者や連合国の支持をえて、チェコスロバキア共和国臨時政府を樹立した。そして、大戦直後の1918年10月28日、プラハでチェコスロバキア共和国の建国が宣言された。この新興の共和国は、ボヘミア、モラビアとシロンスクの一部からなるチェコと、スロバキアから構成された。 両世界大戦間期には民主主義が定着し、チェコスロバキアはヨーロッパでも有数の工業国となった。しかし、ナチス・ドイツの領土拡張主義が繁栄をうばっていった。1938年のミュンヘン協定により、イギリス、フランス、イタリア3カ国の外相は、チェコにズデーテン地方のドイツへの割譲をみとめさせた。翌39年、ナチスはチェコの残りの領土も占領した。かねてから自治要求の気運が高まっていたスロバキアは、同年チェコからの分離独立を宣言、形だけの独立をたもちながらドイツの保護国となり、親ナチスの国家がつくられた。 1945年のヒトラーの死と第2次世界大戦の終結によって、チェコスロバキアのほとんどの領土は返還された。ただし、東部のルテニア地域はソ連に割譲された。スロバキアはふたたびチェコとの統一国家を再建した。46年の選挙では共産党が得票総数の38%を獲得、48年には共産党政権が成立し、以後89年までソ連の指導をうけながらこの国を支配した。68年、スロバキア出身のドゥプチェクらがおしすすめた自由化への改革「プラハの春」がソ連によって武力でおしつぶされたのち、スロバキアはチェコから経済的援助をうけるようになった。
1980年代、ソ連と東ヨーロッパをおそった民主化の波が強まるにつれて、チェコスロバキア共産党の強硬派も改革の流れをせきとめることができなくなった。89年11月、大規模なデモに屈して共産党指導者が退陣した。チェコスロバキア政府は、バーツラフ・ハベルひきいる反体制派の民主化グループ「市民フォーラム」と交渉を開始した。同年12月、スロバキア人のマリアン・チャルファが首相に就任し、新政権が発足。連邦議会はドゥプチェクを連邦議会議長に、ハベルを大統領に選出した。 1990年4月、連邦議会は国名に両共和国の平等性が反映されることをもとめるスロバキアの主張をうけいれ、国名を「チェコとスロバキア連邦共和国」に決定した。90年6月の選挙は46年以降はじめての自由選挙で、市民フォーラムとその提携団体、スロバキアの「暴力に反対する大衆」が多数を占めた。ハベルは2年間の任期で大統領に再選され、チャルファに連立政権の樹立を要請した。
その後の2年間の経済改革は、スロバキアよりもチェコに有利にはたらいた。こうした経済状況とスロバキア人の自立への要求が連邦政府内で大きな政治問題となっていった。両共和国政府に対する連邦政府の権限について議論が重ねられたが、連邦議会が提示した妥協案は実をむすばず、1992年6月の選挙結果はチェコとスロバキアのいっそうの乖離(かいり)をしめすものとなった。スロバキア人ウラジミール・メチアルひきいる民族主義的で独立支持派の民主スロバキア運動と、チェコ人バーツラフ・クラウスひきいる市民民主党が議会の二大政党として台頭し、両指導者はそれぞれの共和国で首相に就任した。 チェコが自由市場への急速な改革をのぞんだのに対して、スロバキアはさほど改革をいそがず、社会主義経済の特質ものこした。スロバキアの独立志向が強まる中、1992年7月の大統領選挙でスロバキア人議員は不信任によってハベル大統領の3選をはばんだ。同月、スロバキア議会は113対24の大差でスロバキア共和国の主権宣言を採択したが、ハンガリー系少数派はこれに反対した。 1992年秋、チェコとスロバキアは連邦解消の詳細に関する交渉を開始し、同年11月、連邦議会は12月31日をもってチェコスロバキアを解体することを決定した。ただし、当時の世論調査によると、市民の過半数が連邦解体に反対であった。
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