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1993年1月1日、チェコとスロバキアは別々の共和国として独立した。スロバキア国民は首都ブラチスラバで建国をいわったが、1月末、メチアル政権はメディアの統制を強化しはじめた。2月15日、スロバキア議会はミハル・コバーチを新共和国の初代大統領に選出した。与党の民主スロバキア運動党員であるコバーチは、強権的なメチアルと意見を異にし、両者の対立はしだいに激化していった。 スロバキアは、国内に民族問題をかかえていた。それは、少数民族であるハンガリー系住民の扱いである。彼らの多くが差別に抗議し、教育と文化における自立性を要求した。1994年初め、スロバキアは西ヨーロッパ諸国との「平和のためのパートナーシップ」協定に調印したが、これはNATO(北大西洋条約機構)加盟への布石であった。 1994年3月、国営企業の民営化基金を民主スロバキア運動の政治資金に流用したという疑惑のため、メチアルは首相の地位をおわれ、かわってヨセフ・モラフチクが首相に指名された。9月におこなわれた総選挙では、ふたたびメチアルひきいる民主スロバキア運動が投票総数の3分の1をえて勝利したが、これは政権の獲得をめざすスロバキア国民党の支持のためであった。しかし、この2つの政党は過半数を占めるまでにはいたらず、11月にスロバキア労働者連盟がくわわったのち、12月にメチアル新政権が発足した。 しかし、メチアル首相とコバーチ大統領の対立が深刻化し、1995年5月にはメチアル首相が議会に大統領不信任案を提出するという事態に発展した。不信任案は否決されたものの、内政は依然として不安定な状態がつづき、98年2月と3月にコバーチ大統領の任期満了にともなう大統領選挙がおこなわれたが、メチアル首相ひきいる最大与党が候補を出さなかったため2度とも必要得票に達した候補がなく、後任の大統領がきまらないという異常事態となった。 1995年8月には大統領の2男誘拐という、情報機関の関与がうたがわれる不可解な事件がおき、民主化の度合いがふじゅうぶんとの欧米諸国の批判をひきおこした。このため、経済は94年にプラス成長に転じて以来、ポーランド、チェコ、ハンガリーをしのぐほどの高成長を維持しているにもかかわらず、NATO加盟問題では不利な立場におちいった。97年5月には東欧諸国でははじめてNATO加盟の是非を問う国民投票がおこなわれたが、大統領直接選挙制の導入の是非を同時に問うべきかどうかをめぐって対立が生じ、国民投票そのものが不成立におわった。こうした国政の混乱と民主化の遅れが災いして、NATO、EUとも加盟第1陣からはずれ、チェコに大きく後れをとることになった。 1998年9月、国民議会選挙がおこなわれ、民主スロバキア運動は第1党であったが友党とあわせても過半数に達せず、野党のスロバキア民主連合、民主左派党、ハンガリー人連立党、市民協調党の4党連合が過半数を獲得した。10月、4党による連立政権が発足し、首相にはスロバキア民主連合議長ミクラシュ・ズリンダが就任した。ハンガリー系閣僚もくわわった。99年1月、議会は大統領を直接選挙制とする憲法改正案を可決し、5月、初の直接選挙による大統領選挙がおこなわれた。与党4党連合の統一候補で市民理解党議長ルドルフ・シュステル前コシツェ市長が、決選投票で前首相メチアルをやぶって当選した。 ズリンダ政権は、NATO加盟にむけて積極外交をすすめ、前政権がロシアとむすんだミサイル購入契約を破棄するとともに、1999年9月、クリントン米大統領と会談しNATO加盟の希望をつたえた。11月、チェコとの間で懸案となっていたチェコ国有銀行株とスロバキア国有銀行株との交換を実現し、民営化に道を開いた。また、失業率が上昇するなど経済が退潮する中で、外資の導入を促進することで経済の活性化をはかった。こうした努力の結果、12月のEU首脳会議で加盟対象国にえらばれた。 ズリンダ政権は、前政権がとっていたハンガリー系住民に対する差別政策をあらためて融和政策を鮮明にし、隣国ハンガリーとの友好関係の樹立をめざした。1999年9月には、ハンガリーのオルバン首相との間で、第2次世界大戦中ドイツ軍に破壊されたドナウ川の橋梁(きょうりょう)の再建築を合意した。しかし、オルバン政権は周辺国に居住するハンガリー系住民を優遇する「民族地位法」を制定、2001年1月に同法が発効するなりスロバキア在住のハンガリー系住民に適用したことから、両国の関係はふたたび緊張した。
2002年9月の総選挙でも、民主スロバキア運動が第1党となったが、新党のスロバキア民主キリスト教連合(スロバキア民主連合が母体)、ハンガリー人連立党、キリスト教民主運動、新市民連合が過半数を制し、4党連立による第2次ズリンダ政権が発足した。 この年の11月に、NATOがバルト三国など中・東欧7カ国の新規加盟を、12月にはEUが10カ国の加盟を決定、スロバキアもその中にふくまれた。EU加盟の是非を問う国民投票は2003年5月におこなわれ、90%以上の賛成で承認された。ただし、投票率は成立に必要な50%をわずかにうわまわる52%であった。その結果、04年3月にNATO、5月にEUへの正式加盟が実現した。 2004年4月におこなわれた大統領選挙は、シュステル大統領、メチアル前首相、民族派野党の「民主運動」党首イバン・ガシュパロビッチら11人が立候補したが、決選投票の末、ガシュパロビッチが当選した。EU加盟に懐疑的なメチアルが決選投票でやぶれたことにより、ズリンダ首相との対立はさけられることになった。 2006年6月におこなわれた総選挙は、ズリンダ政権が8年間すすめてきた市場経済政策や、アメリカに協力してイラクへ派兵したことなどが問われるものとなった。結果は、高い経済成長率を実現したが貧富の差が拡大したとして、税率一本化の廃止や社会保障の拡大、イラク駐留部隊の撤退などを主張した野党の中道左派、スメル(道標)が第1党となった。ズリンダ首相のスロバキア民主キリスト教連合は、与党内の政治腐敗やスキャンダルも影響し第2党にとどまった。 過半数には達しなかったスメルは、2006年7月に、メチアル元首相ひきいる民主スロバキア運動と極右の国民党との連立政権を樹立、首相にはスメル党首のロベルト・フィツォが就任した。
日本との関係は、旧チェコスロバキア時代から良好であり、官民両レベルで交流が活発化している。日本は、1993年1月1日のスロバキア独立と同時に同国を承認し、同年2月には両国間に外交関係が樹立された。2002年1月には在スロバキア日本大使館が開館した。同年3月から短期旅行者の査証相互免除も実施され、日本からの観光客もふえている。1997年3月にメチアル首相、98年2月にコバーチ大統領が来日しており、日本側からは2000年10月に紀宮清子内親王が公式訪問した。
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