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項目構成
日本では、ガラスの使用は弥生時代(→ 弥生文化)にはじまると考えられている。
福岡県春日市須玖岡本(→ 須玖遺跡群)と飯塚市立岩の甕棺(かめかん)遺跡からは、中国の春秋戦国時代の璧(へき)などと同じ組成の鉛ガラスでできた、ガラス管玉が出土している。また春日市の遺跡からは、同じ鉛ガラスの勾玉と、それを鋳造した砂岩製の鋳型が発見されている。これは中国から伝来したガラスを素材として、勾玉を製造したことをしめしている。しかし管玉が中国からの輸入によるものか、国内で製造されたのかは明確でない。 古墳時代(→ 大和政権)の遺跡からは多彩なガラス玉が発掘され、4~5世紀には青緑色や紺色、6世紀には黄色や赤色のアルカリ石灰ガラスが、さらに7世紀には緑色をした鉛ガラスが出土しており、これはすべて大陸からの渡来品と考えられる。
奈良時代には、仏教の普及とともに、仏像の装飾具、骨壺(こつつぼ)、舎利容器などにガラス製品がつかわれたが、それらが日本でつくられたという確証はない。また正倉院には、ガラス容器や玉石製品が多く所蔵されている。なかでも有名なカットグラス(白瑠璃碗(はくるりのわん)や白瑠璃瓶、紺瑠璃杯)は、少量の鉛ガラス製があるものの、そのほとんどがアルカリ石灰ガラス製であり、中東や中国からのものと考えられる。
正倉院宝物のガラスは、鉛の含有量が造仏所作物帳の処方で計算される値に近いことから、日本産の鉛からつくられたものだといわれている。大陸との交流が頻繁だった奈良時代には、輸入ガラスが日本にもはいり、国内産ガラスも多数つくられたが、平安時代に遣唐使が廃止されて、陶器、磁器の発展と対照的に衰退にむかう。 室町末期から安土桃山時代のヨーロッパとの交流によって、日本のガラス文化は再興の兆しをみせる。江戸時代には、オランダとの交易によってガラス製品が中国経由で長崎にもたらされ、ギヤマン、ビードロなどとよばれて珍重された。同時期に、ガラス技法も長崎を通じて伝播(でんぱ)し、大坂、江戸をはじめ各地で各種の器、装身具などが製造された。とくに薩摩(現、鹿児島県)では、ガラス製造を藩営事業として、薩摩切子など近代ガラスの先駆的な工芸品をのこしている。→ガラス工芸の「江戸時代」 明治維新後には、日常生活の欧風化とともにガラス製品が広く普及するようになり、ガラス工芸技術も発展した。1873年(明治6)、イギリス人技術者をまねいて東京の品川に設立されたガラス工場(のちの品川硝子(ガラス)製作所)は、77年に操業を開始した。その後、同工場で技術をまなんだ人々によって、日本の近代ガラス工業の基礎がきずかれたのである。
1906年、ヨーロッパの資本と技術を導入して、東洋硝子製造株式会社が設立され、日本で最初の純西洋式のガラス工場が誕生し、機械で瓶の製造をこころみたものの失敗におわった。また07年に設立された旭硝子株式会社は、日本で最初の板ガラス製造に成功しているが、これは東洋硝子の外国人技術者や職工の協力によるところが大きい。 当時の板ガラスは、ガラスをパイプで円筒状にふきこみ、これを縦に切断して、加熱・展延する円筒法(バルブ法)によって製造していたが、1913年(大正2)に旭硝子は、アメリカから機械式のガラス円筒(バルブ)吹揚機を導入し、生産の効率化に成功した。16年には、ビール需要の増大にそなえるため、大日本麦酒株式会社がアメリカから全自動製瓶機を導入し、ビール瓶の大量生産にのりだす。それ以前、東京電気株式会社(東芝の前身)は06年に半自動式のガラス円バルブ吹揚機を、さらに29年(昭和4)には全自動ガラス円バルブ吹揚機を採用し、電球や真空管用のガラス製造を本格化した。ちなみに、33~34年ごろには、日本の板ガラス生産はベルギー、アメリカについで、世界第3位となった。
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