Windows Live® の検索結果

  • カトリック教会 - Wikipedia

    カトリック教会 (カトリックきょうかい、ローマ・カトリック教会、 ラテン語 : Ecclesia Catholica 、漢語: 天主教 )は ローマ教皇 を中心とし、全世界に10億人以上の信徒を有する キリスト教 の 教派 。 「 カトリック 」の語源は ギリシア語 の「カトリケー ...

  • カトリック中央協議会

    はじめに | お知らせ | 特集 | カトリック教会の概説 | バチカン | 教皇関連 | 典礼解説 | 更新履歴 公文書 | Web文書館 | 出版案内 | ひとくち ... We Recommend カトリック新聞に掲載している外国人が関わる出来事や興味ある日本の教会ニュース、また日本発のUCAN(タイ ...

  • カトリック中央協議会 カトリック新聞 インデックス

    日本カトリック司教協議会公式サイト。概説、教勢調査、各種の公文書、出版案内。

すべての検索結果 :
Windows Live® の検索結果
ページ 5 / 5

カトリック教会

カトリック教会 カトリックきょうかい Catholic Church
百科事典項目
項目構成
V

歴史

1054年の東方教会との分裂(東方正教会)、および16世紀におけるプロテスタント諸教会の分離(宗教改革)以前の時代については、カトリック教会の歴史をキリスト教全体の歴史から切りはなすことはできない。

ただし、カトリック教会独自の歴史観は、自己が新約聖書の教会との断絶なき連続関係にあることを主張し、それ以降、この教会がとりいれてきた教義と組織における主要な諸発展を一貫して正統なものとしてみとめている。したがって、キリスト教史内部で文化や神学や信徒のありかたに大きな変動がおこっても、それらはかならずしも、使徒教会の絶対的規範からの逸脱とはみなされない。そのような変動はむしろ、はじめから存在していた衝動が別の仕方やより複雑なかたちで顕在化したものとみられることが多い。

1

古代の教会

キリスト教の歴史における最初の大きな変化は、イエスの死後わずか数十年のうちに、キリスト教がパレスティナから地中海周辺の他の地方へとひろがったということである。キリスト教は短期間のうちに、ギリシャ・ローマ世界の言語や哲学的術語を自己のメッセージをつたえる道具として吸収した。教会はまた、ローマ帝国から、法律と組織にかかわるいくつかの習慣をとりいれた。それにもかかわらず、司教という典型的な役職がはっきりとした姿をあらわすのは、2世紀の中葉になってからのことである。

313年にコンスタンティヌス1世によってキリスト教が公認されたことは、このような発展が確固たるものになることを助長した。キリスト教が公認されたことはまた、4~5世紀にかけておこった大きな神学上の論争を決着するうえで教会の支えとなり、その結果、正統的な立場が形成された。5世紀の教皇レオ1世の時代までには、ローマ司教が首位権を主張し、また事実上他の諸教会に対する一定程度の主導的立場を獲得した(教皇権)。

2

中世の教会

西方におけるローマ帝国の滅亡と、ゲルマン民族の改宗は、宗教生活のあらゆる領域に甚大な影響をあたえた。それには、7~11世紀における司教の権威の低下ということもふくまれる。

しかし、11世紀後半に、改革の熱意にもえる教皇グレゴリウス7世がヨーロッパのさまざまな王侯たちとの熾烈(しれつ)な叙任権闘争をかちぬいた結果、司教の権威が回復された。その結果、教皇は万人がみとめる西方教会の首長となり、中央集権化され、時代とともにますます有効に機能していく教皇庁をしたがえるものとなった。また、教会法は再活性化され、さらに整備されたが、その際には、教会を統治するうえでの教皇の重要性がとくに強調された。このような展開は、十字軍の遠征ともあいまって、1054年の教会大分裂以降の東方教会との和解をいっそう困難なものにした。

3

近・現代の教会

部分的には叙任権闘争の結果生じた諸変化への反動として、16世紀にプロテスタントの宗教改革が勃発(ぼっぱつ)した。対抗宗教改革(いわゆる反宗教改革)の時代、カトリック教会は、長い時代をかけてつちかってきた伝統を再確認し、とくにはげしい批判の的になったスコラ学、秘跡の効力、教皇の首位権などをことさらに強調することによって、これに応答した。

啓蒙思想フランス革命が教会に攻撃をくわえたことは、その後長らくカトリック教会が保守的・防御的姿勢をとることになった主たる原因である。第2バチカン公会議は、この傾向を逆転させようとするものだった。この公会議によって導入された諸変化は、しばらくの間はかなりの混乱をひきおこしもしたが、カトリック教会は今日でも基本的に安定した勢力をたもっており、世界の多くの地方で繁栄をつづけている。

4

日本のカトリック教会

日本のカトリック教会の歴史は、プロテスタントの宗教改革に対抗するイエズス会の世界宣教運動の一環として、1549年(天文18)に宣教師フランシスコ・ザビエルが鹿児島に上陸したことにはじまる。それは同時に、日本におけるキリスト教の歴史の最初の一歩でもあった。宣教師は「バテレン(伴天連)」、信徒は「キリシタン(切支丹、吉利支丹)」とよばれた。

その後、各修道会の宣教師の活動や、織田信長の庇護(ひご)をうけたことなどから、キリスト教は西日本を中心に急速に発展、わずか数十年の間に武士や商人階級を中心に約15万人の信徒をえたという。しかし1587年(天正15)には、布教が全国支配の妨げや外国による侵略につながるものと信じた豊臣秀吉によって「伴天連追放令」がだされて弾圧がはじまり、97年(慶長2)には長崎で二十六聖人殉教などの悲劇がおこった。

江戸幕府になってからは、踏絵の強制や、宗門改め、寺請(てらうけ)の制度がもうけられて弾圧が組織化・徹底化され、キリシタンは、棄教するか殉教するかの二者択一をせまられた。島原の乱(1637~38)に参加したキリシタンは後者の道をえらんだ人々である。しかし、鎖国の時代を通じて、いわゆる「隠れキリシタン」としてひそかに信仰をまもりとおした人々も少なくなかった。彼らの間では、土着化した独特のキリシタン文化が成立した。キリシタン禁制

1854年(安政元)の開国とともに、宣教師の来日と滞在外国人対象という名目での活動が再開され、まもなく横浜と長崎に天主堂がたてられた。65年(慶応元)、長崎の大浦天主堂では近郊の浦上の隠れキリシタンが名のりでたが、68年(明治元)、幕府の禁教政策をうけついだ明治政府は浦上キリシタンを流刑に処した。これに対し、国際的な非難がまきおこったので、政府は73年(明治6)、キリシタン禁制の「高札」を撤去し、キリスト教の布教を黙認することを余儀なくされた。

その後1889年に大日本帝国憲法が発布され、条件つきとはいえ信教の自由がみとめられると、カトリック教会は、各修道会を中心に布教をすすめるとともに、各地に孤児院や病院、学校などを建設・運営するなどして社会・福祉・教育活動に尽力し、日本の社会に浸透していった。これと平行して、各地に司教区がもうけられ、82年には再布教後最初の日本人司祭が、1927年(昭和2)には最初の日本人司教が叙階された。また19年(大正8)にはローマ教皇庁(バチカン市国)と日本の正式な友好関係が樹立され、駐日教皇使節が派遣された。

満州事変(1931)から太平洋戦争へとむかう流れの中で軍国主義と国家神道が支配的となり、1939年に「宗教団体法」が公布されると、カトリック教会はバチカンとの関係をたたれて「日本天主公教教団」と改称し、プロテスタントの日本基督教団とともに国家の統制のもとにおかれた。

終戦後の1952年には「カトリック中央協議会」として宗教法人となり、教皇庁との外交関係も再開された。60年には土井辰雄大司教が日本人としては初の枢機卿に任ぜられ、以後96年までに計4人の日本人枢機卿がでている。第2バチカン公会議(1962~65)以降は、カトリック教会全体の近代化と柔軟化への方向転換をうけて、日本のカトリック教会も信仰一致運動(エキュメニズム)や他宗教との対話に積極的にとりくむようになった。「新約聖書共同訳」(1978)、「聖書新共同訳」(1987)の出版や(聖書)、世界宗教者平和会議(1970以降)における中心的な活動はその成果である。

2003年12月31日現在、日本のカトリック教会は国内に16の司教区(そのうち東京、大阪、長崎は大司教区)、約1000の教会(布教所をふくむ)、約1650人の聖職者、44万9925人の信徒をもつ。カトリック系の主要な学校としては、上智大学南山大学、聖心女子大学、白百合女子大学、ノートルダム女子大学、純心女子大学、藤女子大学、暁星学園、雙葉学園などがある。また、日本の代表的なカトリック文学者には、遠藤周作、小川国夫、加賀乙彦、曽野綾子、高橋たか子などがいる。

前のページ
| | | |
次のページ
項目内で検索
項目全体を印刷
項目の URL をメールで送る




© 2009 Microsoft