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知覚、記憶、学習、思考などを研究対象とする心理学の一分野。認知科学は近年めざましい発展をとげつつある。そこには心理学をはじめ、コンピューター科学、脳神経科学、言語学、哲学などの多様な領域がふくまれ、大きな分野を形成しているが、認知心理学はその1分野である。つまり認知心理学とは、情報処理を基礎とした認知主義的なアプローチをとる心理学のことで、ひろい意味ではたんに認知の領域ばかりでなく、社会心理学や発達心理学など、心理学の他の分野をもこの「認知主義」という大きな枠組みの中にとりこんであつかっていこうとする心理学のひとつの立場をあらわすものだといえる。 またせまい意味では、それは多様な心理学の領域の中でも、とくに認知の領域をあつかう心理学、つまり人間の認知の働きを研究対象としてとりあげ、それを上記のコンピューター科学をはじめとする認知科学の枠組みのもとで解明していこうという心理学の一領域をさす。ここでは後者をとりあげる。
後者のせまい意味においてさえ、現代の認知心理学は、旧来の認知研究の直接の延長線にあるとはいいがたい。現代の認知心理学は、その新しいパラダイム(取り組み方の基本的な枠組み)において、かつての行動主義心理学(→ 行動主義)と明確に区別され、さまざまな新機軸をふくむ新しい心理学をつくりあげ、しかもその枠組みのもとに、心理学全体をつつみこもうという意気込みをもった心理学だ、という認識があるからである。ガードナーはこれを、端的に「認知革命」とよんだ。 その「認知革命」は、第1に、従来の厳格な行動主義が、外的刺激環境とそれに対する生活体の反応だけに関心をかぎったのに対し、今日の認知心理学は、その行動主義心理学が否定し、とりあつかうのをさけた「心」や「意識」あるいは「心的表象」といった、脳の中で生起していると考えられる過程に、積極的にとりくもうとしていることである。 第2に、それにとりくむときの基本的な枠組みは、「情報処理」というコンピューター科学の基本概念にそったものであり、人間の認知の働きをコンピューターの機能と重ねあわせながら理解しようとする姿勢をもっていることである。 そして第3に、従来の心理学が個々の事実を集積して、そこからボトムアップ的に理論や仮説を構築していく姿勢が強かったのにくらべ、今日の認知心理学は、これまでの姿勢にくわえて、多数の「認知モデル」をまず構築し、そのモデルの妥当性をトップダウン的に検討するという方法でも、研究を展開するようになったことである。 このような「認知革命」をもたらした要因を考えてみよう。
第1は、端的にいって従来の行動主義の行き詰まりである。 ワトソンの先鋭な行動主義宣言にはじまり、スキナーのオペラント条件付け理論によって発展をみた行動主義心理学は、およそ半世紀の間、心理学の世界に君臨したが、1950年代末になって言語学者のチョムスキーから批判をあび、それへのスキナーの反論が、どうみても有効な反論ではなかったところから、多くの心理学者が明らかな行き詰まりを感じはじめ、心理学の内部で「行動主義の限界」が指摘されるようになった。先のガードナーの「革命」という言葉にかけていえば、チョムスキーの行動主義批判は、いわば人心の動揺という「革命前夜」のエピソードだったといえる。
第2に、行動主義が支配的だったとはいえ、知覚や思考の領域は行動主義と対立していたゲシュタルト心理学の影響が強く、その伝統の中で、すでに刺激と反応を媒介する過程への関心がひそんでいた。 知覚は、刺激に対するたんなる反応ではない。バッターの打ったファウル・ボールがこちらにむかってとんでくるとき、とっさにそれをさけようとする。外部からの観察だけなら、ボールの進行方向と人間のさける反応との関係しか問題にならないようにみえる。しかし、さけようとする当事者にとっては、ボールがこちらへとむかってくるようにみえる、その「見え」と、ボールがあたりそうだという一瞬の判断が、さけるという最終反応の手前ではたらいている。知覚とは、まさにその「見え」や判断など、さけるという最終反応にいたる、認知の過程を問題にすることのはずである。 あるいは、ヌホ、キハ、チトのような1系列になった十数個の無意味つづりを1つずつ何回もくりかえし提示されるのを記憶し、その提示順に1つ手前を予言するという典型的な記憶実験を考えてみよう。 そのような刺激リストを何回もみせられた被験者は、いずれは十数個からなるその系列全体を記憶し、正しく1つ手前を予言することができるようになる。このときの被験者の行動を、外部からだけしか見なければ、刺激の特徴(無意味つづりの有意味度、刺激の系列位置、刺激の個数、刺激の提示回数など)と、個々の提示位置における反応の正誤、およびその頻度との関係しか問題にならない。 しかし実際に被験者になってみると、最初のうちは頭の中が混乱して、系列の最初と最後しかおぼえられないが、何度もくりかえして無意味つづりをみている間に、語呂合わせなど、なんとか前後の無意味つづりどうしの間に関連をつける試みが思いうかび、そのような努力をしているうちに、急にその1系列が頭の中にしっかりやきついた感じがしてくる、といった経験がえられる。この被験者の内観にみられるような過程こそ、人の認知の働きにほかならない。 厳格な行動主義はこのような刺激とそれへの反応を媒介する過程を、原理的には問題にしなかった(新行動主義はこの媒介過程を問題にしようとした)。しかし、実際に実験にとりくむ心理学者は、そのデータを解釈する際に、自分が被験者になったときの経験や被験者の頭の中に生じているであろう認知のさまざまな働きを推測して、「そのような認知の過程を無視することはできない」、「その過程の働きこそが当該の現象を理解する鍵になるのだ」と感じはじめていた。 つまり、ミラーのチャンク(情報のまとまり)という考え方やブルーナーの情報処理的な概念学習の考え方、さらに知覚学習の問題などに代表されるように、1950年代の心理学自身のうちに人間の内部で進行中の過程を問題にする土壌があり、これが認知革命にいたる準備段階となっていた。これはいわば、革命前夜における旧体制の内部崩壊の兆しということができる。
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