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項目構成
第3は、コンピューターの登場である。かつてフロイトは、人間の心的活動のイメージを、当時の代表的な機械であった蒸気機関車にもとめたといわれるが、今日の認知心理学は人間をコンピューターになぞらえることによってなりたつといっても過言ではない。その理由は、まずコンピューターは入力情報を処理する情報処理機械であり、しかもその出力情報の精度や価値が、その処理手続き(過程)に依存するような処理機械だという点で、処理過程と人間の知の働きの過程との間に、密接なアナロジー(類比)がなりたつことである。 1956年にニューウェルとサイモンが発表した人工知能プログラムは、人間の認知とコンピューターの働きとの関係を考えるうえで、ガードナーのいう「認知革命」の始まりをつげる意味をもっていた。もちろん、人間の認知の働きとコンピューターの働きは完全に、一致するわけではない。しかし、認知心理学は、ある点で「人間をコンピューターのようにみなす心理学」なのである。 このアナロジーによって、「心的表象」という、行動主義においてタブー視された、人間の内部過程にアプローチすることが可能になった。 コンピューターの場合、入力された情報はその処理過程においてなんらかの記号(たとえば2進法の数字の組み合わせ)で表現されていなければならない。人間を情報処理システムとみなすとき、処理過程におけるその内部情報の表現は、心的表象mental representationとよばれる。それが「心」や「意識」とぴったり対応するかどうかはともかく、まず人間の内部過程に入力情報が、なんらかの変形をうけた「頭の中の記号」があるという考えがみちびかれ、それへのアプローチがはかられるようになった。 他方、コンピューターは記憶されたプログラムにそって入力情報を処理する機械であると同時に、その途中の処理過程つまり情報処理の手続きが、多数の記憶回路を利用して記憶を変換する複雑な記憶装置でもある。コンピューターと人間とのアナロジーはここにもおよんでくる。つまり、人間の知覚や思考などの認知の働きにおいても、記憶の働きが重要な意味をもち、したがって認知心理学は、ある意味で記憶を重視する心理学だという点を示唆することである。認知革命は、皮肉なことに、行動主義が主力をそそいだ学習の、裏側にある記憶の問題にその革命の突破口をみいだしたのである。
第4は、脳神経科学など隣接領域の新しい知見が、情報処理過程の考えを助長したことである。人間の認知が脳の神経細胞間の複雑なネットワークの活動によるということは、今やだれもうたがわない。もちろん、神経細胞の働きが解明されれば心理学の問題は解決するわけではなく、そこには明らかに領界の次元の違いがある。しかし、認知の働きは、脳内過程に依存するのであるから、そのメカニズムがわかることによって、人間の認知の働きの理解がすすむことは大いに考えられる。 さまざまな認知モデルの妥当性は、脳の働きとの関連において考えられることがしばしばある。また知覚情報処理モデル自体に、認知革命の前後にヒューベルとウィーゼルが、ネコの脳の視覚受容野の研究から明らかにした、個々の神経細胞がもつ特定の形態分析機構の考え方が、とりこまれていたりするのである。
そして最後に、認知心理学の名称の出所となったナイサーの「認知心理学」(1967)の出版である。この記念碑的な本の出版は、認知革命がいつおきても不思議ではない当時の状況下において、その革命を現にひきおこし、いまだあいまいなその動きにはっきりとした方向性をあたえ、それを具体的にリードする指導的意味をもつものであった。ニューウェルとサイモンの人工知能プログラム「ロジック・セオリスト」が認知科学の幕開けをつげるものだったとすれば、上述のミラーやブルーナーの研究や、ナイサーの本の基になったスパーリングの研究などがその先駆けになったとはいえ、幕を切っておとしたのはやはりナイサーのこの著書にあったといってよい。 心理学の歴史をふりかえれば、19世紀末から20世紀にかけて活躍したブントの内観中心の心理学から、20世紀にはいると、一方には行動主義による「学習」の領域が、もう一方にはゲシュタルト心理学による「知覚」の領域が、そしてもう一方には無意味つづりをもちいたエビングハウスの「記憶」の領域が枝わかれし、それぞれ相対的に独立して研究されてきたことがわかる。ところが今やこれらの領域は、それぞれの歴史の独自性をのこしながらも、より大きな「認知」という枠組みの中で、情報処理、内的表象、コンピューター、モデルというような合言葉によってかたられる、大きな分野の一領域として位置づけられるようになった。そして、ある意味ではブントの内観的心理学が、装いを新たに復権したとさえいえる。 こうして、従来の狭義の認知研究(知覚、記憶、言語、思考など)は、隣接するコンピューター科学、人工知能研究、神経科学などとの対話を強めながら、しだいにその影響を心理学全体へとおよぼすようになり、今や心理学全体に認知主義的アプローチを根づかせつつあるようにもみえる。それにともなって、それぞれの領域においては、過去につみあげられてきた知見を情報処理的観点からとらえなおしたり、新たに構築されたモデルにしたがってこれまでのデータを解釈したりする動きもあらわれてきた。
今、音楽会で、オーケストラの演奏をきいている場面を考えてみよう。大勢の楽団員や多種多様な楽器がみえ、また彼らがその楽器を演奏している様子がみえる。楽団員は、左右と奥行き方向にひろがって配置され、その手前の中央には後ろ向きの指揮者がタクトをふりながら指揮をしている。奥にいる楽団員の中には前の人にかくれて見えにくい人もいる。つややかな茶色にぬられた弦楽器は、床の木部とはその質感が明らかにちがい、また金管楽器も形状や色の違いばかりでなく、つやの違いがあるのに気づく。ききなれた旋律の中に、むかって右側のチェロやコントラバスからは腹をゆさぶるような低音が、また第1バイオリンのパートからはなめらかな弦の高音が、そして中央後部のトロンボーンからはつんざくような金属音がきこえてくる。 コフカは名著「ゲシュタルト心理学の諸原理」の中で、「なぜ物は現に見えるとおりに見えるのか」と問いをたて、これにこたえるのがゲシュタルト心理学の課題だとのべた。認知心理学もまさにそのように問いをたて、それにこたえようとする。つまり認知心理学は、現に目の前にくりひろげられる知覚風景を、現象学的に記述するよりは、むしろ現に知覚されていることが、なぜそのように知覚されるのかを知る(説明する)試みなのである。 そこで先の音楽会の知覚風景を念頭におきながら、認知心理学では、これをどのように理解しようとし、その際、何が問題になるのかを考えてみることにしよう。認知心理学のモデルでは、まず外界の多様な情報が人間の感覚器官に入力情報として摂取されるところから出発する。ここでは視覚と聴覚に話を限定しよう。
視覚の水準では、たとえばある弦楽器から反射された光(視覚情報)が網膜の明暗をとらえる視細胞や、それぞれ赤色、緑色、青色をとらえる視細胞によって並列的にとりこまれ、その後、3次元的なその楽器の面を構成するように、とりこまれた視覚情報の輝度とスペクトルがその目的に応じて並列に分散処理される。聴覚の水準では、さまざまな楽器から発せられた音波が鼓膜につたえられ、そこで鼓膜の機械的振動に変換され、次にそれが耳小骨を経由して蝸牛(かぎゅう)管につたえられ、その基底膜を振動させる。そして、この基底膜にある内有毛細胞や外有毛細胞の働きによってその音波の周波数分析がおこなわれる。→ 眼球運動:耳
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