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    ル・ノルマンディ料理長 八巻 和弘 <プロフィール> 1954年生まれ、福島県出身。 1972年ホテルニューグランドに入社。

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ノルマンディ

ノルマンディ Normandie
百科事典項目
マルチメディア
モンサンミシェルの引き潮モンサンミシェルの引き潮
項目構成
I

プロローグ

フランス北西部イギリス海峡にのぞむ地方で、かつての州である。現在のバスノルマンディ・レジオンのカルバドス県、マンシュ県、オルヌ県とオートノルマンディ・レジオンのウール県、セーヌマリティム県にあたる。

II

自然

ノルマンディは地質学上ことなったふたつの部分にわけられる。西部はアルモリカン山地に属する古生層からなり、ノルマンディ丘陵が広がる。最高点はアバロワール山の417m。カランタンやバローニュなどの盆地が点在する。西端にはコタンタン半島がイギリス海峡に突出し、セーヌ湾とサンマロ湾をわけている。一方東部は、パリ盆地と同じ堆積層で、コー地方、ヌブール地方、ベクサンノルマン地方などでは中生代の白亜質の高原が広がる。このあたりの地層は新生代に褶曲し、断層を生じた。そこにセーヌ川が谷をきざみながら北西流し、イギリス海峡にそそぐ。また西部と東部では景観もことなる。西部では、牧草地や耕地を生垣がかこむボカージュ、東部ではカンパーニュとよばれる開放耕地が主であるが、中間の地帯では、オージュ地方のボカージュ、カーンやアランソン周辺のカンパーニュ、ベッサン地方の窪地というようにさまざまな景観が混在している。

500kmにおよぶ海岸線をもつノルマンディは海の影響を強くうけている。年降水量は700~900mmに達する。気温の年格差は小さく、夏は比較的すずしく、冬も氷点下になることはまれである。しかししばしば霧やもやがかかる。

おもな都市は、バスノルマンディの首都でカルバドス県都のカーンシェルブール、オートノルマンディの首都でセーヌマリティム県都のルーアンルアーブルである。そのほかの町を西からあげると、アブランシュ、クータンス、マンシュ県都のサンロー、ビール、バイユー、アルジャンタン、オルヌ県都のアランソン、リジュー、ディエップ、そしてウール県都のエブルーである。

観光資源にもめぐまれている。モンサンミシェルをはじめとして、ノルマンディ作戦の上陸地であるコタンタン半島東岸のユタビーチ、ドービルやトルービルなどの海水浴場、またオンフルール、フェカン、エトルタなどが観光客をあつめている。

III

歴史

この地方は紀元前1世紀、ローマ帝国のもとでルグドゥネンシス属州に、また帝国後期の再編後は第2ルグドゥネンシス属州にくみこまれている。5世紀にフランク族の侵入がはじまり、やがてその領土となった。クロービスの死後フランク王国が分割されると、ネウストリア分王国に入った。6、7世紀には修道院建設の動きが盛んになり、聖バンドリーユのもとで、ジュミエージュ、フェカン、フォントネルなどの修道院が次々に建設された。

8世紀になると、バイキングすなわちノルマン人(北方の人)の侵略をうけた。彼らの勢いは9世紀に激しさをまし、セーヌ川をさかのぼっては周辺の町々を略奪した。885年にはパリも攻撃されたが、パリ伯ウードによって撃退された。9世紀末には、ノルマン人はセーヌ川の河口に定住した。911年国王シャルル3世(単純王)はノルマン人の首長ロロとの間にサン・クレール・シュル・エプト条約をむすび、オートノルマンディ地方をあたえ、ここに事実上ノルマンディ公国が誕生した。ノルマン人はさらに領土を拡大し、バスノルマンディにまで進出した。945年国王ルイ4世は公式にノルマンディ公国をみとめざるをえなくなった。

公国はすぐれた統治のもとで繁栄し、強大な国となった。1066年ノルマンディ公ギヨーム1世は、いとこにあたるイングランド王エドワード(懺悔王)が没すると王位継承権を主張してイギリスにわたり、エドワードをついでいたハロルド2世をやぶり、ウィリアム1世(征服王)となって、ノルマン朝を開いた。ノルマンディは12世紀にはプランタジネット朝の手にうつる。この時さらに西部のアンジュー地方や南西部のアキテーヌ地方などの広大な地域もイングランド国王の手にわたり、これ以降英仏国王の対立が激化した。13世紀、国王フィリップ2世は、セーヌ河口に位置するノルマンディをパリへの入り口として戦略的に重視し、その奪回につとめた。1259年、イングランド国王ヘンリー3世はパリ条約によってノルマンディを放棄し、公国はフランス国王のもとにもどった。しかしその後の百年戦争の間にふたたびイングランドの領土になり、1450年に最終的にフランス領となった。

16世紀の宗教戦争の時代には、プロテスタントの拠点のひとつとなった。17世紀には織物、製鉄、海上貿易などが発展。フランス革命の時にはジロンド派の勢力範囲に入った。マラを暗殺したシャルロット・コルデーもオルヌ県の出身である。

19世紀のフランスにおける工業化の流れは、ノルマンディ地方のごく一部に影響をあたえただけで、大部分は牧畜を中心とする農村としてとどまった。

第2次世界大戦末期、コタンタン半島は1944年6月6日の連合国軍によるノルマンディ上陸作戦の舞台となり、350万の兵士が、フランスをナチス・ドイツから解放するためにたたかった。8月半ばまでつづいた戦闘は、第2次世界大戦の激戦のひとつであった。

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