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1596~1650 フランスの哲学者、数学者。近代哲学の父とよばれる(→ 西洋哲学)。フランス中部のトゥーレーヌ州のラ・エーに、法官貴族の子として生まれた。一族には、教養ある人物が多い。
8歳のときアンジューにあるイエズス会のラ・フレーシュ学院にはいり、8年間まなんだ。通常の古典教育のかたわら、数学と、人間理性によってキリスト教教義を理解しようとするスコラ学を教授された。カトリックは、生涯を通じてデカルトに大きな影響をあたえた。 ラ・フレーシュを卒業後、ポワティエ大学で法律をまなび、1616年に卒業。しかし法律家にはならず、18年にオランダへいき、ナッサウ公マウリッツの軍隊に志願する。すでに勃発(ぼっぱつ)していた三十年戦争への参加をもくろんで、翌19年にドイツへおもむき、バイエルン公マクシミリアン1世の軍に入隊した。しかし、前年、自然科学者ベークマンに刺激されて自然学の数量化の構想をいだいていたデカルトは、余暇をつかって研究に没頭した。またこの年の冬、ウルムに宿営中、思索を重ねて数学による学問の統一への自信をえている。以後、生涯を通じて彼はこの問題にとりくんだ。 軍務をはなれたデカルトはドイツからイタリアを旅して、1626年にはパリにあらわれている。フランス滞在中、哲学と数学の研究をつづけながら、光学の実験もおこなっている。28年、自分の財産を処分してオランダにうつりすみ、アムステルダム、ユトレヒト、レイデンなどでくらした。 1637年に出版されたデカルトの最初の主著「方法序説および試論集」は、オランダでの最初の数年間に執筆されたと考えられている。この著作は、幾何学、屈折光学、気象学、そして「方法序説」からなっている。その後、「省察」(1641)、「哲学の原理」(1644)を発表。「哲学の原理」は、オランダにすみ、デカルトと深い親交のあったボヘミアのエリーザベト王女にささげられた。49年には、スウェーデンのクリスティーナ女王にまねかれ、ストックホルムで女王に哲学を講義するが、北の冬のきびしい寒さのため肺炎をわずらい、50年にこの地で没した。
デカルトは科学、とりわけ数学の合理主義的帰納法を哲学にもちいようとした(→ 合理主義:帰納)。彼以前の時代を支配していた哲学は、権威をみとめられた見解同士を比較対照するという、スコラ学的方法であった。しかしデカルトはこのような方法を拒絶して、次のように宣言した。「真理へいたる直接の道をもとめるに際し、代数学や幾何学の証明がもつ確実性と同じ確実性を獲得できないような対象に、われわれはかかわるべきではない」。それゆえ彼は、どのようなものであれ、それが真であると信じられる根拠を確立するまでは、何物も真とはみなさないと決心した。 考察の糸口となる唯一の確実な事実は、有名な「コギト・エルゴ・スム」すなわち「われ思う、ゆえにわれあり」であった。思考しているという明晰な意識による自己の存在証明から、神の存在が論証される。デカルトによれば、神は2つの実体を創造した。ひとつは思惟実体つまり心であり、もうひとつは延長実体つまり物体である。両者は人間において、精神と身体として実在的に区別される(心身二元論)。
デカルトの哲学は、多くの物理的現象に精緻ではあるが、あやまった説明をもたらした。しかし、このような説明が役だたなかったわけではない。なぜなら、デカルト以前の著述家たちが物理現象の説明にあいまいな精神的概念をもちいたのに対して、デカルトは機械論的体系をつらぬいたからである。デカルトは当初、惑星が太陽の周りをまわりながら自転しているというコペルニクス説をうけいれようとしていたが、のちにローマ・カトリック教会によって異端が宣告されると、この理論をすててしまった。彼は、宇宙はさまざまな状態の物質で完全にみたされ、その物質が太陽の周りをまわっているという渦動説を考案した。 生理学に関しては、血液から分離する精妙な流動体を動物精気とよんだ。動物精気は、脳内の松果腺で思惟実体と接触し、神経系をへて、筋肉や身体のほかの諸器官を活動させると考えた。 光学の研究によって、デカルトは入射角は反射角とひとしいという反射の基本的法則を発見した。 → 基礎づけ主義
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