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主として不老長生をねがう中国の土着宗教。儒教、仏教とともに三大宗教のひとつとして古くから人々に大きな影響をあたえつづけてきた。道教では「老子」「荘子」を教典として尊重し、老子を道徳天尊としてまつるが、老荘の系譜として道教の教団が成立したわけではなく、老子、荘子と道教との間に直接のつながりはない。老荘のことを道家というが、その教えは道家思想であり道教とはいわない。儒家の教えを儒教というから、道家の教えが道教だと考えるのは誤りである。英語で道教のことをタオTao、タオイズムTaoismとよぶ場合にも、両者が混同されることが多いが、この点はじゅうぶん注意する必要がある。
後漢の後半期(2世紀頃)は世の中がみだれておちつかない時代であったが、そのような社会の不安を背景に、太平道や五斗米道という宗教集団ができた。これらの教団は祈祷(きとう)をしたり御符できよめた水をのませたりして病人をなおしたので、大きな集団になった。太平道では「太平清領書」という書を、五斗米道では「道徳経」(「老子」)を教典としてよんだ。 太平道は指導者であった張角が信者を動員して後漢をたおそうとした。彼らは黄色の布をつけたので黄巾の賊といわれたが、結局はほろぼされた(→ 黄巾の乱)。五斗米道のほうもやがて衰退した。これらの宗教結社を道教の始まりとするのがふつうの説である。五斗米道から天師道という宗教結社ができたが、この宗派も五斗米道と同じく信者に米を寄進させたので、米賊といわれた。
南北朝時代になり、南には江蘇(こうそ)省の茅山(ぼうざん)に本拠をおく茅山派(上清派ともいう)という教団ができたが、この派の道士(道教の僧侶)は道教の教理をつくるのにつくしたらしい。「真誥(しんこう)」という教典を書いた陶弘景(とうこうけい)は有名である。また北では、北魏の寇謙之(こうけんし)が新天師道を説き、神仙説を中心としてそれまでの道教教理を集大成してととのった組織をつくった。彼は北魏の太武(たいぶ)帝に説いてその庇護をうけた。 道教の教理と組織をととのえたのは、後漢以来しだいに盛んになった仏教に対抗するためであったが、太武帝は道教を信じるあまりついに仏教を禁止するほどであった。
唐の時代は儒仏道の三教がひとしく盛んであったが、とくに道教は朝廷の庇護をうけた。宋の時代になると新道教三派といわれる、真大道教、太一(たいいつ)教、全真教が北方に成立した。これらはいずれも、儒仏道の三教の教理を融合する度合いがそれまでより強くなっている。たとえば全真教では、儒教の「孝経」と仏教の「般若心経」と道教の「道徳経」を信者によませた。 三派の中では全真教が明、清代まで存続した。全真教は仏教の大蔵経にならって道蔵を編纂(へんさん)した。道蔵は道教のあらゆる教典類をあつめた大きな叢書(そうしょ)である。全真教の本山は北京の白雲観で、今日でも道士がつどう拠点である。北の全真教に対し、南方の江南では正一(しょういつ)教が長くつづいて勢力があった。
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