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急進的で小規模な教派の多くは、ピューリタンを筆頭に、迫害をさけてアメリカへ移住し、東部のニューイングランド地方に移住した会衆派とバプティスト派がこれにつづいた。中部の植民地では教派ごとにわかれて定住し、とくに多かったのがルター派、メノナイト派、アナバプティスト派である。南部の植民地では英国国教会が正式な教会として設立された。
プロテスタンティズムの歴史には、政治的な動機と宗教的な動機がからみあった戦争がめだつ。ドイツでは16世紀に宗教上の争いがいくつもおこり、17世紀には三十年戦争に発展して争いが激化し、国土も荒廃した。フランスではカルバン派のユグノー信徒とカトリック教会の間ではげしい内戦となり、1572年にはサン・バルテルミの虐殺によって、多くのユグノー信徒の指導者が殺害された。その後、98年のナントの王令でユグノー派は容認されたが、1685年にはルイ14世によって王令が撤回されたため、彼らの多くは国外への移住を余儀なくされた。イギリスでは属領地の議会と君主政権の間で内戦がおこったが、そのおもな原因はピューリタンと英国国教会の分裂だった。 1648年、ウェストファリア条約が締結されて三十年戦争に終止符がうたれると、プロテスタンティズムは諸派統合の時代をむかえた。17世紀のヨーロッパ大陸では、プロテスタントの正統性が慎重に定義され、体系的に解釈された。この傾向は、のちにプロテスタント・スコラ主義とよばれ、中世の体系的なカトリック神学と対比されるようになった。その特徴は、聖書の権威と厳格な論理性を重視することだった。
1670年代にはドイツで敬虔(けいけん)主義とよばれる運動がおこり、知識を偏重した正統派に対抗した。ドイツ人牧師フィリップ・シュペーナーの指導のもと、信者は少人数で個人の家につどい、聖書をまなび祈りをささげた。敬虔主義は個人の回心を重視し、神学的にただしい命題をうけいれるのではなく、素朴で積極的かつ敬虔な信仰を尊重した。この一派は、ドイツをはじめ北欧諸国とアメリカにもひろまった。
科学的な思考と啓蒙思想がプロテスタント神学におよぼした影響は、17世紀後半から18世紀にかけてあらわれた理性主義の傾向にうかがえる。理性主義は、初期プロテスタントのいくつかの教派の流れをくんでいるが、その中には、カルバン派が説く無条件の予定説を否定するアルミニウス派や、17世紀に英国国教会内に生まれた、寛容で教義にとらわれない自由主義の広教会派(ブロード・チャーチ)もふくまれる。 理性主義は神学に批判精神をとりいれ、伝統的な信仰箇条を理性と科学にてらして考察するよう主張した。神学にのっとって細部にこだわるよりも、信仰の教義をひろくみとめることを重視して、17世紀の初めに発達した厳格な正統派を間接的に攻撃した。理性主義の傾向をもっとも純粋に表現したのが理神論で、信仰を哲学としてとらえ、啓示と奇跡を否定し、いかなる教派の教えにも左右されなかった。 プロテスタントの理性主義のもうひとつのかたちが、18世紀に影響力をふるったユニテリアン派である。その起源は16世紀のヨーロッパ大陸にさかのぼり、イタリア人の創始者ファウスト・ソッツィーニにちなんでソッツィーニ派とよばれていた。1689年の寛容令のあと、ユニテリアン派はイギリスで正式にみとめられるようになり、18世紀にはニューイングランドでもひろく信奉されるようになった。彼らは三位一体やイエス・キリストの神性という教義を否定し、イエスの倫理的な教えや模範を重視した。
プロテスタンティズムの知識偏重や形式重視の傾向に反発しておこった敬虔主義は、18世紀までつづき、感情的な宗教体験に直接うったえるいくつかの運動の誕生をうながした。 こうしてイギリスで誕生したのがメソディストである。この一派をおこしたジョンおよびチャールズのウェスリー兄弟は、敬虔主義とアルミニウス派の影響をうけていた。ウェスリー兄弟は信仰への回心を重視し、まずしい者をいたわりながら、イギリス各地で大規模な野外集会をひらき、当時の英国国教会の形式主義や理性主義とかかわりのなかった労働者階級に、信仰の覚醒をもとめる熱気をまきおこした。覚醒運動は正式にはみとめられなかったため、しだいに英国国教会から分離して、非国教徒の一派となった。 アメリカの植民地では、イギリス人伝道者のジョージ・ホワイトフィールドをはじめとする巡回説教師たちが、大規模な野外集会をひらいて信仰の覚醒を布教。やがて、宗教的熱情の復興運動である最初の「大覚醒」がおこった。
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