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歴史と歴史書

歴史と歴史書 れきしとれきししょ History and Historiography
百科事典項目
項目構成
III

アジアでの歴史叙述

アジアにも、歴史叙述の長い伝統がある。旧約聖書にうかがえるユダヤ的歴史観はヨーロッパでも知られているが、もちろんそれ以外にも注目すべきものがある。

1

イスラム

古代ユダヤ人と同じく、イスラム教徒の歴史叙述に対する関心も宗教的な信念に端を発し、その影響を色こく受けている。ユダヤ教やキリスト教の預言者の後継者とみなされている預言者ムハンマド(マホメット)は、強力な歴史意識をイスラム世界にふきこんだ。8~9世紀に、神学者と歴史家の双方がムハンマドの生涯と教えを公式に記録する作業にとりくむようになった。タバリーがあらわした「諸預言者と諸王の歴史」は、初期イスラム史の記録としてひろく受けいれられている。イスラム世界の歴史家は、政治や軍事面の指導者よりも敬虔(けいけん)な信者や学者の生涯を記録したがる傾向があり、熱心な信者の人生を社会の精神的進歩のより確かな尺度とみなしていた。そのため、年代記や伝記のたぐいは、ムハンマドの同胞たちの生涯を記録したものにはじまり、長い伝統をほこっている。

14世紀に登場したイブン・ハルドゥーンは、広範な知識とすぐれた理論構築力を駆使して、普遍史を書いた。彼は何世紀にもおよぶ社会と政治の発達を説明する理論を考えだし、イスラムの歴史家としてははじめて、歴史の変化には社会的・経済的な理由があることを示唆した。しかし、彼の著作はひろくよまれ、書写されたにもかかわらず、19世紀にヨーロッパの思想が導入されるまではひろい影響力をもつにいたらなかった。

2

中国

世界のあらゆる国の中でも、その過去をもっとも長く、しかも大量に記録してきたのは中国である。中国の学者たちはきわめて古い時代から歴史叙述に関心をよせており、現実生活に応用できる教訓を後世につたえようと努力してきた。歴史の教訓をまなぶことは、中国のすべての学問に不可欠の作業だが、その姿勢をさらにおしすすめた孔子は、模範とすべき歴史の重要性を認識し、真正な記録をのこそうとつとめた。情報を記録し、保存する作業は、前3世紀に中国が統一されて国家の官僚となった儒学者たちの最大の仕事となった。古代の中国の史書は、こうした学者兼官僚による公式記録で、詳細かつ具体的な記述ではあるが、全体を統括したり説明する試みはみられない。皇帝の発言や行動も日ごとに記録され、のちにその治世の記録を編纂するのに活用された。王朝ごとに、著者の個人的な解釈もはさまない型にはまったやり方で、くわしい歴史書が作成された。

漢代の歴史家、司馬遷は前1世紀初めに、中国初の包括的な通史「史記」をあらわした。ここで考案された紀伝体は、多方面から歴史をえがきだす世界にも類例のないスタイルで、以後、歴代王朝正史の基本となった。その後多くの正史がつくられていったが、それらをどうよみ、またどう記述するかという学も生まれていった。劉知幾は8世紀初めに、歴史の方法論に関する世界で最初の論文「史通」を書き、古代から唐代までの史書について批判的史論を展開した。つづいて司馬光は11世紀末に、戦国時代から960年まで1362年間の通史「資治通鑑」を編年体で書いた。文書の言葉を分析して偽作を的確に発見する史料批判の洗練された手法(清朝考証学)も、17~18世紀に確立している。

清が崩壊し、中華民国が成立すると、ヨーロッパ思想の影響もあって胡適らによる文学革命がおこり、歴史においても訓詁学的あり方への批判と科学的歴史学の確立への動きがみられた。いっぽうでは、1929年の北京原人の発見や36年からの殷墟の発掘など多くの考古学的事実がもたらされ、それらを総合して、歴史の法則性を史的唯物論の立場から解明した郭沫若らの研究がおこなわれた。日本による中国侵略後に成立した中華人民共和国のもとでも、基本的にはその立場が踏襲されている。

3

日本

712年(和銅5)の「古事記」についで720年(養老4)に編纂された「日本書紀」が、現存する日本最古の国による歴史書(国史)とされる。国史編纂の試みは、日本に統一国家(大和政権)が確立した6世紀半ばにはじまり(「帝紀」「旧辞」)、7世紀には聖徳太子蘇我馬子らが「天皇記」「国記」の編纂に着手した。これらは今に残っていないが、それらをひきついで、中央集権の古代律令国家(律令制)が確立した8世紀初めに「古事記」「日本書紀」がつくられたのである。以後、10世紀初めまでに、「日本書紀」をふくめて六国史といわれる「続日本紀」「日本後紀」「続(しょく)日本後紀」「日本文徳(もんとく)天皇実録」「日本三代実録」が編纂されていった。

これらは中国の公的歴史書(正史)を模したものであったが、中国の正史が紀伝体であるのに対し、編年体が基本となっている。また、日本の神々と万世一系の天皇がひと続きのものとしてえがかれているように、そこには、中国などに対し、「神国」日本の特殊性を際だたせる意図がこめられていた。

こうした国史編纂の事業は、荘園の発達などによる律令国家の衰退とともにおこなわれなくなり、中世にはいると、和文による「栄花物語」や「大鏡」にみられるように、物語的な歴史叙述があらわれ、また新興の武士を主役とした軍記物「平家物語」や「太平記」が生みだされた。これらは、天皇家の正統性を目的とした国史とはことなり、変転する時代を生きる人間を活写する新しい文学的歴史叙述の方法を切りひらいたものであった。

戦国の世をへて徳川幕府が成立(幕藩体制)すると、武家社会の正当性を儒教的立場から明らかにする意図をもって歴史書の編纂がおこなわれた。徳川家の歴史を中心に編纂された「武徳大成記」や、林家が編纂した「本朝通鑑」などがそれである。いっぽう、徳川光圀が編纂させた「大日本史」は、完成が明治時代におよぶ2世紀半にわたる大事業となったが、朱子学的な大義名分による歴史把握が伝統的な歴史意識とむすびついて独特な水戸学を生みだし、幕末の尊王攘夷運動に大きな影響をあたえた。

徳川幕府の崩壊後に生まれた明治政府は、ふたたび天皇を中心とする国家の確立を目ざし、六国史につぐ正史を生みだそうとしたが、みるべき成果はなく、皇国史観は研究の場よりも主として教育にとりいれられていった。歴史研究は、東京大学にもうけられた史学科など大学を中心にすすめられるようになり、そこでは、史料の厳密な検討を基礎におくランケ派の指導のもとに近代史学が導入された。他方では、西洋史学の影響をうけて、歴史を政権交代の観点ではなく、文化や生活、経済などをふくむ総体としてとらえる福沢諭吉文明論之概略」、田口卯吉の「日本開化小史」などが生みだされた。

その後、東京帝国大学では「大日本古文書」「大日本史料」などの古典基本史料の編纂がすすめられ、いっぽうでは、津田左右吉による記紀研究などが古代史の新しい解釈をもたらした。さらに大正から昭和初めにかけて、日本資本主義の矛盾が深まる中で、マルクス主義の立場にたって歴史を支配されてきた側からえがきだそうとする新しい潮流も生まれていった。

第2次世界大戦後、戦中に抑圧をうけていた自由な研究が可能になると、戦争への反省をともなって歴史意識の変革をもとめる新しい研究が活発になった。戦中に「近代欧州経済史序説」を発表していた大塚久雄の「近代化の人間的基礎」や高橋幸八郎の「市民革命の構造」は、ヨーロッパを対象としつつ、日本社会の封建的束縛の廃棄を課題としていた。また、日本の政治思想史の研究をすすめていた丸山真男は「超国家主義の論理と心理」や「日本政治思想史研究」をあらわし、近世から近代にかけての日本政治の特質を明らかにした。さらに、皇国史観のもとでは在野の研究者であった石母田正は、「中世的世界の形成」で、天皇制問題を意識しつつ日本中世の実態をえがきだした。

こうした成果をふくみつつ、戦後日本の歴史学は社会構成史を中心に展開され、その後、民衆生活史、地方史、女性史など、多くの領域にひろがっていった。また、政治史や制度史にかたよりがちだった社会構成史においても、文化や日常生活の研究がすすみ、新しい観点からの歴史像の構築がすすめられている。

いっぽう、考古学民俗学、文化人類学(人類学)などとの連携もすすみ、戦後、とりわけ高度経済成長期に急速にすすんだ遺跡発掘の成果は、考古学のめざましい発展とともに歴史学に大きな影響をあたえている。

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