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ヒンドゥー教徒の信仰生活において、もっとも基本的なものは家族が子供にほどこす通過儀礼(サンスカーラ)である。食い初め式にはじまり断髪式、初潮時の浄め、結婚式、無事な出産をいのる儀礼、出産後のお七夜とつづき、新しく生まれた子供には最初の食い初め式以下がくりかえされる。最後は死に際し、火葬してできることなら灰をガンガーにながす葬儀、そして年忌としておこなわれる祖霊祭がある。それは長男が家長の義務として、死者の霊がよい転生をとげるよう、ピンダというゴマ入り団子をささげる儀礼である。 家庭で、日々神棚に果物や花をささげるプージャー(いけにえをもちいない供養)は主婦の役割である。彼女たちはまた、土地ごとの蛇神、樹神、敷地内や近くの十字路などにすむ鬼霊たちにも供物をささげる。
多くの村や町には寺院があり、そこでは祭官たちが一日じゅう儀式をおこなっている。日の出の祈りにはじまり、主堂の神像としてあらわれている神を奏楽でめざめさせ、沐浴させ、新しい衣を着せ、風をおくり、食事をささげ、そのお下がり(プラサーダ)を礼拝におとずれる信者にわけあたえるというプージャーを日々おこなっているのである。寺院ではまた、賛歌をうたい、聖典をとなえ、日没の儀礼をおこなう。コルカタ(カルカッタ)の女神カーリーをまつるカーリーガート寺院のようにヤギが犠牲にされる場合もあるが、犠牲は寺院の境内の外で低いカーストの祭官の手でおこなわれることが多い。そのほか、土地ごとに小さなほこらが無数存在する。 大きな町には、町の外の人々も信仰する大寺院がある。岩をほりぬいたもの、巨大な一枚岩でできたもの、彫刻をほどこされた石造寺院など様式はさまざまである。特定の祭りの日には、主堂からはこびだした神像を山車(ラタ)にのせて巡行し、多くの人々をあつめて祭礼がおこなわれる。 ヒマラヤのリシケーシュやガンガー流域のバラナシのように、全インドから巡礼の人々がおとずれるようなひろく信仰をあつめる聖地も多い。これらはティールタとよばれ、罪とけがれをきよめるための沐浴場であると同時に彼岸への渡し場とされる。また巡礼地の中には特定の祭りのときにとくに人があつまるところが多く、たとえばガンガーとヤムナ河の合流点にあるプラヤーガでは、毎年のクンバメーラ祭も混雑するが、12年に1度の特別な儀式がおこなわれるときにはかぞえきれない巡礼者があつまる。
各地方にはそれぞれの年中行事があり、有名な祭礼も多い。バラナシでは、女神ドゥルガーがこの期間に里帰りをするとされるドゥルガー・プージャーが10月におこなわれる。ドゥルガーのマヒシャに対する勝利をいわう祭で、張りぼての女神像を10日間まつったあとガンガーにながしておわる。 インド全域でおこなわれる祭りもある。ディーワーリーは冬がはじまる11月の新月の夜にたくさんの灯明をかざり、川にながす光の祭りで、ホーリーは春の愚行祭(3月)で、カーストの垣根もとりはらわれ、髪もむすばず、色をつけた粉や水をかけあう祭りである。
ヒンドゥー教の信仰と生活を理解するためには、歴史の視点がぜひ必要である。最古の部分は絶対年代をくわしく知ることはできないが、おおよその発展過程をしめすことはできる。
前2000年ごろ、ハラッパーやモヘンジョ・ダロのあるインダス川流域で高度の文明が発達していた。しかし、前1500年ごろアーリア人がインドに侵入してきたときには、この文明は衰退期にあった。したがって両者の接触や影響の程度ははっきりしない。ただ生殖器崇拝、女神崇拝、儀礼としての沐浴、ヨーガの座法など、ヒンドゥー教の中にはインダス文明の影響と思われるものは多い。→ インダス文明 前1500年ごろまでに、アーリア人の諸部族はパンジャブ地方に定住していた。彼らはインド・ヨーロッパ語族に共通の、男性神を中心にした信仰体系と単純で活力にみちた武人の倫理をもっていた。彼らがインドで成立させた文化であるベーダの宗教はバラモン教とよばれるが、伝統とインドの文化、風土の接触から生まれたものである。武人の神インドラ、火神アグニ、聖なる興奮性飲料の神格化ソーマなどベーダの神々は複雑な祭式によって崇拝されていたが、のちの時代、こうした祭式万能主義がすたれたあとも神話として生きのこった。 前900年ころにはベーダの文化はガンガー流域に進出し、より複雑な文化と社会組織を発達させた。前6世紀には小さな国家が多く生まれ、社会の変化にともない仏教やジャイナ教というヒンドゥー教に対立する宗教も生まれた。
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