Windows Live® の検索結果

  • 外務省: ブルガリア共和国

    カルフィン・ブルガリア副首相兼外務大臣の来日(平成19年11月) 麻生大臣のブルガリア訪問(概要と評価)(平成19年1月) ブルガリア、ルーマニアの欧州連合加盟について(麻生大臣談話)(平成18年12月)

  • ブルガリア - Wikipedia

    国の標語 : Съединението прави силата (ブルガリア語: 団結は強さを生み出す) 国歌  : 愛しき祖国

  • 明治ブルガリアヨーグルト倶楽部

    明治ブルガリアヨーグルト倶楽部はヨーグルトに関する様々な情報が満載です。デスクトップ用壁紙やアイコンがダウンロードできるページもあります。

すべての検索結果 :
Windows Live® の検索結果
ページ 6 / 8

ブルガリア

ブルガリア Bulgaria
百科事典項目
マルチメディア
キバシオオライチョウキバシオオライチョウ
項目構成
4

防衛

ブルガリア軍は旧ソ連の援助をうけた最新鋭の装備をもつ。徴兵制で兵役は18カ月。2004年の兵力は陸軍2万5000人、海軍4370人、空軍1万3100人。ほかに国境警備隊、治安警察がある。

VIII

歴史

現在のブルガリアにあたる地域は、1世紀後半にはローマ帝国の属州トラキア、モエシアを構成していた。6世紀に南下してきたスラブ人がこの地に定住し、トラキア人などの先住民を駆逐または吸収した。7世紀後半、黒海東岸にいたトルコ系のブルガール人がドナウ川をわたって侵入し、ビザンティン帝国の一部となっていたモエシアを征服し、681年にプリスカを首都として王国をつくった。ブルガール人に由来する国名をもつブルガリアのはじまりである。しかし、国内ではスラブ人のほうが多数を占め、ブルガール人は8世紀を通じてしだいにスラブ化される。

803年ごろから814年のクルム・ハーンの治下に、ブルガリアは大幅に領土を拡大。ビザンティン帝国をおびやかし、813年にはコンスタンティノープルにせまる勢いだったが、その後しばらくは平和的な関係をたもった。一方でセルビアやマケドニアにも領土を広げたが、860年セルビアとの戦いで大敗した。その後ビザンティン帝国とたたかったが、864年、ボリス1世はビザンティンとの和議に応じてキリスト教の受容に同意し、870年にブルガリアに大主教座をおくことをみとめた東方正教会に改宗する。

1

第1次ブルガリア帝国

9世紀末から10世紀初めにかけて、ボリス1世の子シメオン1世の治世下、ブルガリア王国はヨーロッパ東部最大の強国となった。シメオンはビザンティン文化の普及をはかる一方で、マジャール人(ハンガリー人)やビザンティン軍とたたかって領土を拡大し、925年にはギリシャ・ブルガリア皇帝(ツァール)の称号をみずから名のった。この時代には、キュリロスとメトディオスの弟子たちの活躍などにより文化がさかえ、スラブ語初の文語である古代スラブ語キリル文字が採用されている。

こうして成立した第1次ブルガリア帝国は10世紀後半、内紛やマジャール人の侵入により衰退にむかった。969年にはロシア軍が首都を包囲したが、ロシアの南下を警戒するビザンティン皇帝が介入したため撤退した。このとき、東ブルガリアはビザンティン帝国に併合される。西ブルガリアでは997年にサムイル帝が即位したが、1014年にビザンティン皇帝バシレイオス2世の攻撃に屈したため、18年、西ブルガリアもビザンティン帝国に併合され、第1次ブルガリア帝国は滅亡する。

2

第2次ブルガリア帝国とオスマン帝国の支配

1185年、貴族のアセン兄弟にひきいられたブルガリア人がビザンティン帝国に対する反乱をおこし、86年に第2次ブルガリア帝国を成立させた。当初はバルカン山脈からドナウ川までの地域を版図としたにすぎなかったが、13世紀初めまでに隣接するセルビアやマケドニアにまで勢力をのばした。1204年、アセン兄弟の末弟カロヤンが十字軍によるコンスタンティノープルの占領に乗じ、一時的に東方正教会と断絶してローマ教皇の権威をみとめた。第5代のイバン・アセン2世の時代にはアルバニアまで支配を広げ、第2次ブルガリア帝国は最盛期をむかえた。

しかしイバン・アセン2世の死後、封建勢力の台頭とモンゴル軍の侵入などにより帝国は衰退し、1330年にはセルビアに決定的な敗北を喫する。60年代に入るとオスマン帝国の進出がはじまり、96年までにブルガリアのほぼ全域が支配下にくみこまれた。これ以後、ブルガリアは約500年間にわたってオスマン帝国に支配され、政治的、文化的には無力となる。オスマン支配に対する散発的な反乱はおきたものの、農民の状態はむしろ改善された。

18世紀後半から19世紀初頭にかけて、文化的復興の動きをきっかけにナショナリズムが高まった。1876年にはオスマン帝国に対する四月蜂起(ほうき)がおこったが失敗におわり、オスマン軍による大量虐殺の報復をうける。77年、オスマン帝国と南下をもくろむロシアとの戦争がおこり(ロシア・トルコ戦争)、翌年オスマン帝国が敗北したことから、ブルガリアは自治公国となった。ただし、バルカン山脈から南側の東ルーメリアはオスマン帝国の自治州とされた。

3

独立とバルカン戦争

1879年、ドイツのバッテンベルク家のアレクサンダルが公国議会により初代の公に選出された。85年、東ルーメリアがオスマン帝国に反旗をひるがえし、ブルガリアへの統合を宣言。しかし、ロシアは時期尚早としてこれをみとめず、セルビアもブルガリアに宣戦を布告した。翌86年には親ロシア派のクーデタでアレクサンダル公が退位させられたが、反ロシア派のスタンボロフがこれをくつがえして首相に就任する。87年に新たに公に選出されたフェルディナントは、1908年、オスマン帝国で革命がおこったのに乗じてブルガリアの独立を宣言し、みずから国王フェルディナント1世を名のった。

1912年の第1次バルカン戦争で、ブルガリアはセルビア、モンテネグロ、ギリシャと同盟してオスマン帝国をやぶった。しかし、オスマン帝国から獲得したマケドニアの領土の再分割をめぐって第2次バルカン戦争が勃発(ぼっぱつ)し、ブルガリアはセルビア、モンテネグロ、ギリシャ、オスマン帝国、ルーマニアに敗北してかなりの領土をうしなう。

前のページ
| | | | | | |
次のページ
項目内で検索
項目全体を印刷
項目の URL をメールで送る




© 2008 Microsoft