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    国の標語 : Съединението прави силата (ブルガリア語: 団結は強さを生み出す) 国歌  : 愛しき祖国

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ブルガリア

ブルガリア Bulgaria
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第1次・第2次世界大戦

第1次世界大戦がはじまると、ドイツ・オーストリア側にたってたたかった。敗戦国となったブルガリアは1919年11月、連合国との講和条約(ヌイイー条約)によって、ふたたび領土の割譲を余儀なくされた。

1919年に成立したスタンボリスキを首班とする農民同盟政府は、内政では人口の大半を占める農民の状態の改善、外交ではほかのバルカン諸国との協調につとめた。しかし、農民同盟による独裁政治は軍人や都市の中産階級には不人気で、23年にクーデタでたおされ、スタンボリスキは殺害された。農民同盟、共産党、自由主義者をのぞく諸派の新政府のもとでも内紛はつづき、25年にはギリシャとの対立が再燃する。35年、国王ボリス3世がこうした状況を利用してクーデタをおこし、独裁体制を樹立した。

第2次世界大戦中の1940年9月、バルカン諸国の制圧にのりだしていたドイツの圧力によって、ブルガリアはルーマニアから南ドブルジアを獲得する。しかし、翌41年3月にはドイツから日独伊三国同盟への加入を強いられた。翌4月、ブルガリアはギリシャとユーゴスラビアに、12月にはアメリカとイギリスに宣戦を布告した。

1943年、劣勢にたったドイツはブルガリアに対ソ戦への参戦を要求した。8月、ユダヤ人迫害の要求などに抵抗していたボリス3世がヒトラーとの会見後に急死したため、6歳の息子シメオン2世が即位したが、ボジロフの親ドイツ政権が樹立される。44年9月、ソ連軍のブルガリアへの進撃がはじまると、共産党や農民同盟の組織した「祖国戦線」が呼応してクーデタを挙行し、政権を掌握。10月には連合国との休戦協定がむすばれた。

戦後処理がソ連主導ですすめられたため、第2次世界大戦後はソ連の影響力が強まった。1946年11月の総選挙は、ソ連の介入を理由とする反対派のボイコットの中でおこなわれ、「祖国戦線」が大勝した。

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社会主義時代

1946年9月、国民投票で国王シメオン2世の退位がきまり、ブルガリアは人民共和国の樹立を宣言した。共産党の指導者コラロフが大統領、コミンテルン元書記長のゲオルギ・ディミトロフが首相に就任する。

1947年2月、連合国との講和条約がパリで調印され、ブルガリアはまたも領土の割譲と返還、多額の賠償を課せられることになった。同年12月、ソ連憲法をモデルとした新憲法が採択され、ブルガリアは社会主義への道をあゆみはじめる。農民同盟指導者のニコラ・ペトコフをはじめ共産党以外の勢力を次々に粛清し、共産党が一党体制を確立した。

対外政策もソ連の動向に左右されるようになり、ブルガリアは近隣諸国のうち、1948年にコミンフォルム(→インターナショナルの「コミンフォルム」)から追放されたユーゴスラビアや、西側陣営に入ったギリシャ、トルコとの友好関係を断念せざるをえなかった。

社会主義国時代のブルガリアはトドル・ジフコフが共産党書記長に就任した1954年以降、ほぼその指導のもとにあった。コメコンおよびワルシャワ条約機構に加盟したブルガリアは、ソ連のもっとも忠実な同盟国となり、その見返りとして70年代にはソ連から多額の援助をうけ、工業化を推進した。

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体制の転換

1980年代半ば、ジフコフ政権はトルコ系住民の同化にのりだし、氏名のスラブ化、トルコ語の使用禁止などを強制したことから、89年にはトルコ系住民が大量に国外へのがれた。この事件をひとつのきっかけとして民主化要求が高まり、同年11月にジフコフは退陣においこまれる。

後任の書記長となったムラデノフのもとで、トルコ人の権利回復や複数政党制の導入を皮切りに改革がはじまる。1990年2月の共産党大会で一党独裁を放棄、6月におこなわれた戦後初の自由選挙では社会党(旧共産党)が勝利したが、8月には反体制派の指導者ジェリュ・ジェレフが議会で大統領に選出される(1992年1月に再選)。

1991年7月、新憲法が国民議会で承認された。同年10月、新しい制度のもとでおこなわれた選挙で戦後初の非共産党政権が誕生したのち、改革が本格化し、市場経済化や土地の再私有化などがすすめられた。92年には国営企業民営化法が議会を通過し、バルカン航空などの大規模な国営企業が売却された。

しかし、実質賃金の低下、高い失業率、急激なインフレが生活を圧迫したため、国民の政府批判が高まり、1994年12月の総選挙では不満票をあつめた社会党が勝利した。95年1月に社会党のビデノフ政権が成立したが、96年に入って銀行があいついで倒産するなど経済危機がますます深まったため、12月には内閣総辞職においこまれた。これに先だつ11月の大統領選挙では、民主勢力同盟のペタル・ストヤノフが与党社会党の候補を大差でやぶって当選した。

第2党だった民主勢力同盟のソフィアンスキ暫定内閣が1997年2月に発足するまで約2カ月の政治的空白が生じるなど、政局は混乱をきわめた。4月には繰り上げ総選挙が実施され、経済改革の継続と親西欧外交の推進を主張する民主勢力同盟が過半数を制した。5月には民主勢力同盟議長のイワン・コストフを首相とする新政権が発足した。コストフ政権は経済安定化を最優先課題とし、これまで実施がおくれていた電話、石油精製など主要国営企業の民営化をおしすすめた。

外交面では、トルコやギリシャなど近隣諸国との協力関係強化をはかった。NATOとは1994年に「平和のためのパートナーシップ」協定に調印したものの、正式加盟には慎重な姿勢をとり、97年2月に東欧ではもっともおそく加盟申請の意向を明らかにした。5月に発足したコストフ政権はNATOおよびEU(ヨーロッパ連合)への加盟を長期的な目標として再確認したが、民主化と経済改革の遅れがひびいて、7月のNATO首脳会議では加盟交渉第1陣からはずれた。EUとの加盟交渉においても第1陣の交渉対象国には入れず、事実上の後回しである交渉準備国にとどまった。

1999年2月、マケドニアとの間で国境不可侵などをうたった共同宣言が調印された。ブルガリアは、マケドニア語はブルガリア語の1方言であるという立場をとっているが、共同宣言を両国語で作成することに同意した。

1999年11月、クリントン米大統領がブルガリアを訪問し、NATO加盟への協力を表明した。12月、EU首脳会議がブルガリアなど6カ国を加盟対象国に決定したのをうけ、経済省を新設して体制整備をすすめた。

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元国王が首相、大統領は旧共産党系の社会党党首

2001年の総選挙を前に、元国王のシメオン2世が亡命先のスペインから帰国し、新政党「国民運動」を旗揚げした。選挙の2カ月前であった。「民主勢力同盟」政権は、それまでの4年間で高インフレの鎮静や経済のプラス成長など成果をあげてきた。しかし、失業率の増加や金権腐敗などに不満をいだき、新しい変化をもとめる国民は、新政党の国民運動に期待をたくした。選挙の結果は、国民運動が約45%の得票をえて第1党となり、トルコ系政党「権利と自由のための運動」と連立して、シメオン内閣が誕生した。

東欧の旧社会主義国で、国外にのがれていた旧王家の人物が母国の政権の座につくのははじめてのことであった。シメオン2世は、1946年に退位させられてスペインに亡命し、実業家となってホテル経営などで成功した。半世紀後の96年にはじめて一時帰国した際、市民の大歓迎をうけ、その5年後に政権を担当することになった。

2001年11月には大統領選挙がおこなわれ、現職のストヤノフ大統領が社会党のゲオルギ・パルバノフ議長にやぶれた。この結果、大統領が旧共産党出身で、首相が元国王という世界でもめずらしい組み合わせが誕生した。選挙でシメオン2世はストヤノフを支持したが、ストヤノフが、金権腐敗の体質を批判され、また経済的混迷を克服できなかった民主勢力同盟の出身であることに国民は嫌気がさし、パルバノフがおしあげられた。

シメオン内閣は、税制改革や合理化で経済安定をはかったが、これらの経済政策が国民の不満をよんで、2003年の統一地方選挙で国民運動は大敗を喫した。課題となっていたNATO加盟は、02年のNATO首脳会議での決定をへて04年4月に正式加盟が実現し、EU加盟についても、05年4月に新規加盟条約の調印にこぎつけた。イラク戦争に際してはアメリカを支持し、戦後、治安維持部隊に参加してイラクに400~500人を派兵した。しかし、民間人もふくめて犠牲者があいつぎ、05年3月にアメリカ軍の誤射によりブルガリア兵が死亡したことから、派兵反対の世論が高まって、政府は05年中にイラクからの撤退を決定した。

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EU加盟

2005年6月の総選挙では、社会党を中心とした左派連合「ブルガリアのために」が82議席を獲得し、与党の国民運動をおさえて第1党となった。連立政権樹立にむけての各党との交渉は難航したが、パルバノフ大統領の働きかけにより、国民運動、権利と自由のための運動と合意が成立。社会党党首セルゲイ・スタニシェフを首班とする大連立内閣が8月に発足した。06年10月の大統領選挙では、EU加盟にむけて経済・社会改革を推進してきた現職パルバノフが再選された。

EUヨーロッパ委員会から、いくつかの分野で加盟準備の遅れが指摘されていたが、ブルガリアは、当初の予定どおり2007年1月1日にルーマニアとともにEU加盟をはたした。なお、司法改革、汚職一掃、組織犯罪やマネー・ロンダリングへの対策、EU農業補助金が適切に配分される仕組み、食品の安全などについては、今後の改善努力がもとめられている。

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