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チェコ

チェコ Czech Republic
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防衛

連邦解消後、チェコスロバキア軍はチェコ軍とスロバキア軍にわかれた。2004年現在、チェコ軍の総兵力は2万2272人で、このほかに5600人が国境と国内警備にたずさわっている。徴兵制は04年10月に廃止され、05年1月には完全に志職業軍人化された。

VII

歴史

西スラブ族の一部族であるチェコ人は、9世紀にキリスト教に改宗、10世紀初頭にボヘミア王国を建設した。14世紀、カレル1世(在位1347~78。神聖ローマ皇帝としてはカール4世)の治下で、ボヘミアは政治的にも文化的にも絶頂期をむかえる。その後、フスの宗教改革で国内は混乱状態におちいった。フスは1415年、異端の罪で火あぶりの刑に処されたが、彼の教えにもとづいてフス派はローマ・カトリック教会の権威とたたかい、11世紀から入植がはじまったドイツ人の特権層を攻撃した。

1526年、ドイツ系でカトリック教徒のオーストリア・ハプスブルク家がボヘミア王に選出されると事態は悪化。1618年にチェコ人の反乱がおきた(三十年戦争)が、20年には鎮圧された。その後の300年間、ボヘミアとモラビアではカトリックへの改宗とドイツ化が強力にすすめられ、両地方はハプスブルク帝国の領地の一部にすぎなくなった。

1

チェコスロバキアの誕生

第1次世界大戦中、チェコ民族主義の指導者マサリクベネシュが、スロバキアの指導者ミラン・シュテファーニクや連合国の支持をえて、チェコ人とスロバキア人のための共和国建国にむけて臨時政府を設立した。そして、1918年10月28日に、プラハでチェコスロバキア共和国の成立が宣言された。新共和国はボヘミアとモラビアのチェコ地域とシュレジエン(シロンスク)の一部、スロバキアを領土としていた。

両大戦間にチェコスロバキアでは民主主義が発達し、ヨーロッパでも有数の工業国となった。しかし、ナチス・ドイツの領土拡張主義がこの繁栄をすべてうばっていった。1938年、イギリス、フランス、イタリア3国はチェコのズデーテン地方のドイツへの割譲を承認、ハンガリーとポーランドもチェコスロバキアの領土の一部を獲得した。ナチスは翌年、残りの領土にも侵入し、ボヘミアとモラビアを保護領に、スロバキアを独立国とした。

1945年のヒトラーの死と第2次世界大戦の終結により、チェコスロバキアのほとんどの領土は返還された。46年の選挙で共産党は投票総数の38%をかちとって第1党となり、48年に、共産党の支配が確立し、チェコスロバキア人民共和国が樹立された。

2

民主化の波

1960年代末、共産党の指導者ドゥプチェクの自由化政策が、それまでの共産党による抑圧政策と対立するようになると、ソ連と東ヨーロッパ諸国は軍隊をチェコスロバキアに派遣する。こうして「プラハの春」として知られる民主化運動は、68年8月におしつぶされた(→チェコスロバキアの「ソ連の侵攻とフサーク体制」)。69年1月、チェコスロバキアは連邦制をとり、チェコとスロバキアがそれぞれ議会と政府をもつことになった。

1980年代末にソ連やほかの東ヨーロッパ諸国から政治改革の波がおしよせると、チェコスロバキア共産党の強硬派は、もはや改革の流れをおしもどすことはできなかった。89年11月、大規模なデモののち、共産党指導者は党幹部の地位をおりた。政府は、バーツラフ・ハベルひきいる反体制派のグループ「市民フォーラム」との交渉に応じ、同年12月、スロバキア人のマリアン・チャルファを首相とする新政権が発足。ドゥプチェクが連邦議会議長にえらばれ、連邦議会はハベルをチェコスロバキア大統領に選出した。この変革は流血をともなわず、なめらかにおこなわれたことから、「ビロード革命」とよばれている。

1990年4月、連邦議会は、国名に両共和国の平等性を反映すべきとのスロバキアの要求をうけいれ、国名を「チェコとスロバキア連邦共和国」にすることに決定。同年6月におこなわれた選挙は46年以降初の自由選挙で、市民フォーラムとその提携政党が両議院において多数を占めた。2年間の任期で大統領に再選されたハベルは、チャルファに連立政権の樹立を要請した。

3

チェコとスロバキアに分離

その後の2年間における自由市場改革は、スロバキアよりもチェコに有利に作用した。こうした経済状況とスロバキア人の独立への要求が、連邦政府内での大きな政治問題となった。共和国政府に対する連邦政府の権限などに関して議論が重ねられた。連邦議会は妥協案をしめして両共和国の歩み寄りをもとめたが、失敗におわった。

1992年6月の選挙では、スロバキア人のウラジミール・メチアルひきいる独立推進派の民主スロバキア運動と、チェコ人バーツラフ・クラウスひきいる市民民主党が、議会の二大政党として台頭した。スロバキアの独立志向が強まる中で、スロバキア人議員はハベル大統領の3選をはばみ、ハベルは同年7月大統領職をしりぞいた。結局、両共和国は連邦制のあり方をめぐって合意に達することができず、解体、分離への動きが加速した。しかし、当時の世論調査によると、市民の過半数が連邦解体に反対であった。

チェコとスロバキアは交渉により平和裏に連邦を解消し、1993年1月1日、チェコ共和国とスロバキア共和国という2つの独立国が誕生した。同年1月末、チェコ下院はハベルを共和国初代大統領に選出し、前蔵相のクラウスは首相として、中道・右派連立政権を指揮することになった。政府は、EU(ヨーロッパ連合)への加盟を申請し、94年初頭には、NATO(北大西洋条約機構)と「平和のためのパートナーシップ」協定に調印した。これは、NATO加盟への布石であった。

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