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1995年11月、チェコはほかの東ヨーロッパ諸国にさきがけて、先進工業国をメンバーとするOECD(経済協力開発機構)への加盟を承認された。96年6月にはスロバキアとの分離後初の総選挙が実施された。選挙結果は、上院でこそ市民民主党、キリスト教民主連合・チェコスロバキア人民党、市民民主連合の与党連合が圧勝したものの、下院では政府の急進的な市場経済化政策への不満が批判票となってあらわれ、与党3党の総議席が過半数をわった。クラウス首相は下院で躍進した社会民主党の閣外協力をとりつけながら、かろうじて従来の与党3党による連立政権を維持しようとした。 しかし、貿易収支の悪化から通貨コルナが急落、インフレの激化で生活状態が悪化したため、政権内部からもクラウス首相への批判が噴出した。1997年10月にはジェレニエツ外相が首相との対立を理由に辞任、11月には下院選挙での献金疑惑の浮上をきっかけとしてクラウス内閣が総辞職においこまれた。チェコでは体制転換以後の東欧諸国で唯一、非共産党勢力が一貫して安定した政権を維持してきたが、政局は不安定におちいり、98年1月に中央銀行総裁のトショフスキーを首相とする新内閣が発足したものの、6月には、2000年の任期満了をまたず繰り上げ総選挙が実施された。 この結果、社会民主党が第1党となったものの決定的な支持はえられず、7月、市民民主党の閣外協力をえて、社会民主党議長ミロシュ・ゼマンを首相とする社会民主党の少数単独政権が発足した。2000年1月には、社会民主党が市民民主党との協力関係を強化して政権基盤の安定をはかったが、11月の上院選挙と地方選挙で大敗し、大幅に議席をへらした。上院では市民民主党の閣外協力をえても過半数に達しないという状況になった。 1998年1月には任期満了にともなう大統領選挙もおこなわれ、ハベル大統領がかろうじて再選された。2002年6月の総選挙で社会民主党は、市民民主党との協力協定を破棄して社会保障の充実をうったえてのぞみ、議席減を最小限にくいとめて第1党の座をまもった。しかし、過半数には遠くおよばず、中道のキリスト教民主連合・チェコスロバキア人民党、右派の自由連合・民主連合との3党連立で、ウラジミール・シュピドラ政権を発足させた。この総選挙では、市民民主党も議席をへらし、主要政党への批判票を吸収したボヘミア・モラビア共産党が大幅に議席をのばした。
1997年1月にはドイツとの「和解宣言」に調印、ドイツ側はナチス・ドイツによるチェコ(当時はチェコスロバキア)解体の責任を、そしてチェコ側は第2次世界大戦後のズデーテン地方からのドイツ人の追放に対する責任をみとめた。同宣言により両国関係が正常化されたことで、チェコのEUおよびNATO加盟への障害がまた1つとりのぞかれた。 EU加盟については、1997年12月のEU首脳会議の決定にもとづき、ポーランドなど5カ国とともに第1陣の加盟対象国として、98年3月からEUとの政府間交渉がはじまった。NATO加盟に関しても、97年7月のNATO首脳会議でポーランド、ハンガリーとともに第1陣の新規加盟が決定され、99年3月に加盟が実現した。EU加盟は、2002年12月のEU閣僚会議で、チェコをふくむ中・東欧諸国など10カ国の同時加盟が承認された。 2003年2月、1989年のビロード革命からチェコスロバキアの大統領として約3年、ついでチェコの初代から2期10年、大統領をつとめたハベルが、3選禁止の憲法規定により、任期満了で引退した。後任の大統領をきめる議会での選挙は、2度にわたって過半数をこえる候補が出ず、2月末におこなわれた3度目の選挙でやっとクラウス元首相を選出した。 EUへの加盟の是非を問う国民投票は、2003年6月におこなわれ、約77%の賛成で承認された。投票率は約55%であった。この結果により、04年5月に、EUへの正式加盟が実現した。
2004年6月のヨーロッパ議会選挙で連立与党は、24議席中わずか4議席しか獲得できず、シュピドラ内閣は総辞職した。8月、34歳のスタニスラフ・グロスがひきいる第2次3党連立内閣が、賛成101、反対99の小差で信任されて発足した。しかし、同年11月の上院選敗北にくわえて、05年に入ると首相の自宅購入資金をめぐる疑惑などが浮上し、3月に与党第2党が政権を離脱した。グロスは少数内閣で切りぬけようとしたが、政局の混迷が深まり4月に辞任、政権は短命におわった。後継首相にイジー・パロウベクが任命され、5月にグロス政権の閣僚の大半をひきついだ3党連立内閣が発足した。 2006年6月におこなわれたEU加盟後初の総選挙では、右派の市民民主党が、8年にわたり政権の座にあった社会民主党を小差でやぶり第1党となった。単独過半数を制した政党はなく、右派勢力、左派勢力どちらも100議席という状況で、新首相に指名された市民民主党議長ミレク・トポラーネクは9月に市民民主党の少数単独内閣を発足させたが、議会の承認がえられず総辞職。11月、クラウス大統領は再度トポラーネクを首相に指名した。議会で過半数の支持をえるためには大連立しかないが、所得税の一律化、年金改革、社会福祉の削減などをかかげる市民民主党は、これらで対立する社会民主党との大連立を断念し、キリスト教民主連合・チェコスロバキア人民党、緑の党との連立をきめた。07年1月、下院の内閣信任投票は、野党2議員の造反にたすけられた形で切りぬけた。これにより、選挙後7カ月以上つづいた混乱はひとまず収束したが、今後の政権運営は多難と予想される。
日本との関係は旧チェコスロバキア時代から良好である。日本は1993年1月1日のチェコ独立と同時に同国を承認し、同1月29日には外交関係を樹立した。伝統的に文化面での交流が中心であったが、体制転換後は政治・経済面など他の分野にも交流が拡大している。98年8月からは短期旅行者の査証相互免除も実施され、日本からの観光客がめざましい増加をみせている。 要人の公式・非公式の訪問も頻繁におこなわれており、チェコ側からは1995年12月にハベル大統領、96年9月にクラウス首相があいついで来日した。日本側からは96年に紀宮清子内親王が公式訪問し、最近では2001年7月に田中真紀子外相が、翌02年7月には天皇皇后両陛下がおとずれている。また03年8月に、日本の首相としてははじめて、小泉純一郎首相が訪問した。
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