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サクラはさいたときのうつくしさだけでなく、ちるときのはかなさも人々の心をとらえた。それは武家の台頭とともに、「花は桜木、人は武士」といった潔さに変調され、中世にはいると武士の生き方をあらわす花となっていった。こうしたサクラへの異常な観念は、ずっとのちの昭和20年までのこることになる。 サクラの観賞は、天皇や貴族の楽しみとしてはじまり、中世からは武士にも広がった。源頼朝、足利義満、豊臣秀吉など、天下をとった武士はいずれも盛大な花見の宴を開いている。
サクラが一般の庶民にもしたしまれるようになったのは、江戸時代にはいってからである。サトザクラ(里桜)とよばれる園芸品種もふえ、サクラを研究した書籍も次々と刊行された。とくに寛政年間(1789~1801)から天保年間(1830~44)の約50年間は、サトザクラの栽培がもっとも盛んになり、250種以上も記録されている。サクラは歌舞伎や能の舞台、浮世絵、屏風(びょうぶ)絵、置物、陶磁器、着物などの絵柄に盛んにとりいれられている。
江戸末期、江戸の染井村(現在の東京都豊島区駒込)の植木屋で新種のサクラがつくりだされた。当時、名に聞こえたサクラの名所の吉野山(奈良県)にあやかって、「吉野桜」として売りだしたところ、人々はそのうつくしさに驚嘆し、あらそって植えたので、数年にして東京一帯に広まっていった。しかし、吉野桜では、吉野山のヤマザクラと混同するので、「染井吉野(そめいよしの)」を正式名とした。 ソメイヨシノは花が大きくうつくしいうえに、葉がでる前に花だけがこぼれんばかりにさき、樹勢がよく、接ぎ木でも簡単にふやせることから大人気となった。明治期になって全国に植栽が広がり、その結果、サクラといえばソメイヨシノをさすほどになっていった。ソメイヨシノが、オオシマザクラとエドヒガンをかけあわせたものとわかったのは、ずっと後のことである。
鎌倉時代の記録に、八重桜の接ぎ木がおこなわれていたことがのこされている。園芸品種の作出は室町時代に盛んになり、江戸時代には250種ぐらいが記録されている。現在、約300種をかぞえる園芸品種のうち、よく知られたものを母種の系統別にしるす。
佐野桜、市原虎の尾、菊枝垂、御信桜(ごしんざくら)、平野寝覚(ひらのねざめ)など。
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