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参戦後は選抜徴兵制によって大規模な動員体制を確立、300万人あまりが兵役につくことになった。また、戦時産業局のもと、政府主導の新経済体制を導入、リバティ国債発行で数百万ドルをあつめた。公報委員会は広報宣伝活動をおこない、戦争への協力をよびかけた。 1918年1月には、戦後にむけて独自の平和原則14カ条を発表(ウィルソンの14カ条)。それは、民族自決、植民地主義の廃絶、諸国家の組織(国際連盟)結成などを世界によびかけるものだった。 1918年夏、アメリカ軍はフランスで連合軍とともに反攻、11月には戦争を終結させた。
1919年1月、パリで講和会議がひらかれた。ウィルソンはベルサイユ条約調印のために6カ月間におよぶ交渉にのぞみ、会議で指導的役割をはたした。理想主義的な14カ条すべてを実現することはできなかったが、念願の国際連盟構想を条約にもりこむことができた。 しかし国内では、国際連盟加入によって戦争にまきこまれることへの危惧や、国家主権と軍事行動の制約をおそれる反対の声があがっていた。共和党上院議員たちは条約破棄をめざし、連盟加入にはきびしい条件をつけた。ウィルソンは世論にうったえて全国遊説をしたが、その途中の1919年9月、脳溢血(のういっけつ)でたおれる。けっきょく上院承認はえられず、条約は批准することができなかった。アメリカはその後、20年間国際連盟に加入せず、会議には非公式に参加しただけだった。 1920年の大統領選挙では、保守的な共和党候補ウォーレン・ハーディングが圧勝。21年3月、ウィルソンは失意のうちにホワイトハウスをあとにした。
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