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古代から近代初頭まで貴族など支配層を多数輩出しつづけた有力氏族。中臣鎌足が、669年(天智8)に藤原の氏姓をさずけられたことにはじまる。当初は中臣氏のおもだった者がみな称したが、698年(文武2)鎌足の子孫だけの氏姓となった。
藤原不比等は、氏族・豪族の基盤にたよる従来の役人のあり方から、天皇制的な律令国家体制の実務官僚へと転身して一族の発展の基礎をきずいた。天皇家との姻戚(いんせき)関係を重視して娘の宮子を文武天皇の夫人とし、ついで安宿媛(あすかべひめ:光明皇后)を皇太子妃にいれ、天皇家の外戚の独占をめざした。また朝政官(閣僚)の一氏一代表の原則をやぶって、717年(養老元)に子の房前(ふささき)をも参議させる先例をひらいた。 不比等没後、729年(天平元)その4人の子たちは聖武天皇夫人の安宿媛を皇后にたて、皇族とならぶ地位を手にいれた。また皇后も後宮から策をめぐらし、甥(おい)の仲麻呂を権力の座につけた。奈良末期からは藤原氏の一体となった動きよりも、不比等の子、武智麻呂(南家)・房前(北家)・宇合(うまかい:式家)・麻呂(京家)の子孫間のせめぎあいが活発となった。
平安前期には、式家の薬子と仲成兄妹がおこした薬子の変(810)で尽力した北家の冬嗣が頭角をあらわし、以降、北家が繁栄することとなった。冬嗣の子の良房は、承和の変(842)で伴(大伴)健岑(こわみね)・橘逸勢を排斥し、応天門の変(866)に際しては臣下としてはじめて清和天皇の摂政の地位につき、伴善男も失脚させた。さらに養子の基経は光孝天皇を擁立してその関白となり、天皇の代行者たる摂政・関白の地位を手にした。 他氏の排斥もつづき、阿衡紛議、菅原道真の左遷、安和の変などをおこして、橘・菅原・源など諸氏の台頭を未然におさえた。藤原氏が外戚でない皇子は、後見がないため即位さえできなくなった。また、天皇は幼年で即位して成年になると退位する慣例ができ、摂関家は天皇にかわって政務の全権をにぎった。こうして10世紀後半からは道長・頼通の摂関政治の黄金期をむかえた。 1068年(治暦4)に藤原氏を外戚としない後三条天皇が即位すると、反摂関家の動きが強まり、天皇家の政権巻き返しがはじまった。それにつづく白河天皇らも、譲位するとともに上皇の院で院政をとり、父権によって天皇をあやつった。摂関家はかつての圧倒的な政治力をうしない、荘園整理などで経済的にも圧迫された。院は摂関家の分裂をはかり、その画策にのって保元の乱(1156)では本家をわった争いを演じた。
鎌倉時代になると、幕府に東日本の支配権をうばわれ、承久の乱(1221)で公家の地位はさらにさがった。藤原氏は兼実系と基実系に大きくわかれていたが、そこに幕府が介入した。兼実系が九条・二条・一条の3家、基実系が近衛(このえ)・鷹司(たかつかさ)の2家に分裂したのを固定され、その五摂家間が交替で摂関となるよう氏としては解体された。 ほかにも閑院・花山院・御子左(みこひだり)・四条・勧修寺(かじゅうじ)・日野・中御門(なかみかど)など多数の分家が生まれ、さらに閑院家が三条・西園寺(さいおんじ)・徳大寺などとなったように、多くの家にわかれていった。 室町時代には、そのひとつの日野家が将軍家とむすびついて正夫人を数多くだし、武家にかかわりつつ力をたもった。江戸時代には、宮廷の地位がさがるとともにさらにおとろえたが、家柄の権威だけはのこり、武家・寺院などの格式を側面からささえる役割をはたした。
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