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1609年にオランダで望遠鏡が発明されたことを知り、その年の8月には倍率32倍の精巧な望遠鏡を製作した。 人類ではじめて、天体を観測するために望遠鏡を利用したガリレオは、月の山やクレーターをみつけ、天の川が星の集団であることや木星の衛星を大きいほうから4つ発見した。1610年3月にこれらの発見をその著書「星からの使者」で公表した。 この功績からベネツィアの元老院は、ガリレオにパドバの終身教授としての地位をあたえた。しかし、フィレンツェのトスカーナ大公家に「第一哲学者兼数学者」としてまねかれ、講義の義務から解放されて研究と著作に専念できるようになった。1610年の12月までにはプトレマイオスの説を否定する金星の満ち欠けを観測し、コペルニクスへの信頼をますます強固なものにした。
1613年にガリレオは、太陽の黒点についての研究を出版(「太陽黒点についての手紙」)し、コペルニクス理論の正しさを主張した。 ピサのある教授がガリレオ不在のおりにトスカーナ大公家に、地球がうごいているというガリレオの信念は異端であると進言した。 1614年にはフィレンツェの司祭が、説教壇でガリレオを支持する人々を公然と非難した。ガリレオは長い手紙を書き、数々の科学論争における聖書の引用が不適切であり、聖書の解釈は知識の増大とともに変化すべきであって、カトリックの教義に科学的な立場についての規制をもうけるべきではないとした。
1616年の初めにはコペルニクスの本は検閲対象になるという教令がだされ、イエズス会のベラルミーノ枢機卿はガリレオに、それ以上地球がうごいているという概念に固執すべきでないと命令した。それに先だってベラルミーノ枢機卿はガリレオに、コペルニクスの問題についてはあくまで仮説としてとどめ、数学的な目的のためにだけもちい、けっして現実のこととして聖書とすりあわせるようなことをしないようにと警告した。一説では、このとき、コペルニクス説を支持しないことを誓約したといわれるが、真実ははっきりしない。その後長年ガリレオはこの問題について口をとざし、海上における経度を木星の衛星の位置から決定する方法について研究し、落下物体についての研究を再開し、彗星についての論文「黄金計量者」をあらわし、そこで科学の方法論について意見をのべた。
1624年には、プトレマイオスとコペルニクスのそれぞれの説を、地上における潮汐作用の物理と関連して論じる「世界の二大系対話」(ふつう「天文対話」とよばれる)の執筆にとりかかった。30年にこの本の出版許可をローマの監察官からえていた。32年にフィレンツェで出版したところ、公的な出版許可があったにもかかわらず、異端審問所から「異端の重大な疑いあり」としてローマへの出頭命令をうけた。
この告発は、1616年にガリレオに対して「コペルニクスの説に関しては口頭でも文書でも議論してはならない」という命令にもとづくものであった。ベラルミーノ枢機卿はすでに死去していたが、「16年の教令以来ガリレオはローマ・カトリック教徒に課せられた規定をこえるようなことをしたことはない」という枢機卿が署名した証明書がのこされていた。 この主張を否定する署名文書は一通も発見されなかったにもかかわらず、1633年にガリレオは異端誓絶(→ 異端審問)を強制され、生涯にわたる投獄を宣告された(すぐに無期の自宅蟄居(ちっきょ)に軽減された)。「天文対話」は焚書(ふんしょ)にされ、判決文がすべての大学で公示された。
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