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プロローグ; 革命の始まり(1789); 憲法制定国民議会(1789~91); 立法議会(1791~92); 国民公会(1792~93); 恐怖政治(1793~94); 総裁政府(1795~99); フランス社会の変化
革命前のフランス社会は身分制の社会であった。第一の身分は聖職者であり、全人口約2500万のうち0.5%にみたない12万人程度にすぎなかったが、全国の土地の1割を所有し、教会組織の維持のために、民衆から十分の一税を徴収していた。また、聖職者は免税の特権をもち、独自の行政機構と裁判所をもっていた。 第二の身分は貴族である。貴族は、先祖伝来の領地をもち、領主として領内の住民から貢租をとりたて、また領地を通過する商品からも税をとった。貴族は全国の土地の約2割をもっていたが、人数は全人口の1~1.5%と推定されている。事業をいとなむ豊かな貴族もいたが、零細な貢租でくらす貴族も多く、豊かな貴族は自由主義的で、貧しい貴族は保守的であった。貴族にも免税の特権があり、聖職者とともに、フランスを支配する特権的階層を構成していた。 国民の98%には肩書がなかった。この人々は、まもなく第三身分とよばれるようになる。彼らの中には、金融業や商工業で富をたくわえた者や、医師や弁護士のような高度な知識をもった者もおり、こうした人々はブルジョワとよばれた。だが、都市の人口の4分の3は、職人や労働者や零細な商人であった。全国的には、全人口の4分の3以上が貧困な農民であり、彼らは、領主に貢租をおさめ、国王に税をはらい、高利貸しにくるしめられることが多かった。全体として、貴族と聖職者が税をおさめずにすんだので、国家の財政をささえていたのは第三身分だったが、その社会的な地位は低かった。 18世紀になると、ブルジョワ層は、啓蒙思想の助けをかりて身分制や君主制を批判するようになっており、特権身分に対する揶揄(やゆ)や罵倒は、都市の民衆や農民にもひろまっていった。貴族は、王権が強化される中で権限が縮小し、また18世紀の経済発展にとりのこされ、豊かになったブルジョワをうらやみ、いきどおっていた。 ルイ16世が即位したころ、王国財政は危機におちいっていた。支出は歳入をこえており、しかも支出の大半は、膨大な累積債務の利息にきえていた。国王は、ブルジョワ出身の有能な財務長官チュルゴーやネッケルの意見をいれて税制改革をおこない、貴族と聖職者の免税特権を縮小しようとした。この改革案に貴族が猛烈に反対したため、ルイ16世は1614~15年以来、1世紀半ぶりの全国三部会召集を決意し、1789年1月から選挙がはじまった。第三身分の代表の選出は複雑な間接選挙でおこなわれたが、選挙の宣伝の中で、農民や都市の民衆は社会の仕組みを理解するようになった。
聖職者と貴族の代表それぞれ約300名ずつ、第三身分の代表約600名、合計1200名がベルサイユに召集された。三部会は1789年5月5日に開会されたが、冒頭から議事の進行と議決の方法をめぐって対立が生じた。特権身分の代表たちは、伝統にしたがって身分別に議論をするつもりでいた。第三身分の代表は、身分制そのものを否認していたので、全員が一堂に会して議論し、ひとり1票で議決する方式を主張した。こうして、特権身分と第三身分の対立がつづいた。 1789年6月17日、第三身分部会は、理論家のシエイエスの提案で、国民議会と名のることをきめた。国王は第三身分の集会場を閉鎖して対抗したが、第三身分は近隣のテニスコートにあつまり、憲法が制定されるまで解散しないことを決定した(テニスコートの誓い)。6月24日、聖職者の多くと貴族の一部が第三身分の集会に参加した。国王はやむをえず、残りの貴族にも合流をうながした。第1段階は第三身分の勝利におわり、議員たちは、憲法制定国民議会と名のることをきめて、憲法制定の作業を開始した。 国王は、武力をつかう決意をし、軍隊の到着をまっていた。そして1789年7月11日、改革を主張する国務長官のネッケルを罷免した。ネッケル罷免の情報をきいたパリの民衆は武装を開始した。ネッケルは民衆に人気があり、罷免を国王と貴族による戦闘開始とうけとったのである。7月14日、パリの民衆はバスティーユ要塞にでかけた。要塞に保存されている火薬の引き渡しが目的だったが、話がこじれて衝突がおこり、要塞司令官が殺害され、要塞は占拠された。 パリは興奮状態になり、市民は勝手に市長をえらび、前日、市民によって結成された国民衛兵の司令官として、アメリカ独立戦争の英雄ラ・ファイエット侯がえらばれた。また、パリ市のシンボル・カラーの赤と青に王家の白をくわえ、新しい旗印がつくられた。国王は軍隊の引き揚げを宣言し、パリで3色の標識をうけとり、パリの新しい市制を承認した。全国の都市がパリにしたがい、市民の手で行政機関が設立されていった。 同じころ、農村では暴動がおきていた。事件はほとんどの場合、貴族の軍がせめてくるというデマがながれ、パニックにおちいった農民が貴族の城館をおそうという経過をたどった。全国に波及した農村の暴動の波は「大恐怖」とよばれたが、これは農民の領主に対する昔からの恨みを表現したものだった。自由主義的な貴族は、これをみて譲歩の必要を感じ、議会の作業に協力するようになった。いっぽう、王弟アルトワ伯をはじめとする保守派の貴族は、国外に亡命しはじめ、国外から革命の粉砕をくわだてるようになる。
1789年8月4日の夜、議会は、貴族のもっている特権の廃止を決定した。興奮状態のうちに、領主の領民に対する特権や聖職者の十分の一税、各州や都市の特権などが廃止され、フランスの封建制は終わりをつげた。8月26日には、「人は生まれながらにして自由であり、平等である」ことを宣言する「人権宣言」が採択され、身分制も廃止された。 国王は「人権宣言」の承認を拒否した。事態の予想外の進展に王は抵抗し、同年10月には、ふたたび軍隊をよびよせた。パリの民衆も再度、行動にでた。女性が中心になったデモ隊が、10月5日、ベルサイユの宮殿におしかけ、翌日、国王一家を馬車にのせてパリに連行した。パリにつれてこられた国王は一連の法令を承認し、国王とその家族はパリの中心にあるチュイルリ宮殿にはいり、議会もパリに移動した。 議会は、チュイルリ宮殿に付属する馬の練習場におかれて、憲法や、他の法律の制定作業をおこない、新しい国家の骨格をつくった。フランスは憲法にもとづく三権分立の国家ときめられた。選挙でえらばれた議員たちの議会が立法を担当し、行政は王のもとにおかれる。司法は選挙でえらばれる司法官が担当するものとされた。昔からの州は廃止され、全国は80余りの県にわけられた。州は、フランス王国に編入された当時の事情に応じて、免税の特権や、州独自の昔からの法律をもっており、場合によっては独自の議会をもっていた。革命前のフランスは多くの小国家の寄せ集めだったのである。 新しいフランス王国は、パリにおかれた唯一の政府が、全国共通の法律によって統治する、中央集権国家となった。議員の選挙は、納税額による制限選挙制とされ、一定以上の納税額がない者、すなわち収入のない者は国政に参加する資格をみとめられなかった。「人権宣言」の中には、私有財産の擁護や、経済活動の自由がうたわれており、新しいフランスは、ブルジョワたちの理想を体現する国家であった。 立法活動が進展する中で、議員たちは多様な党派を形成した。王政と貴族の特権をまもろうとする貴族たちは議場の右側に、立憲王政を支持する自由主義貴族と上層のブルジョワたちが中央に、共和政をのぞみ、また貧困階層の要求をうけいれようとする人々が左側にあつまった。ここから、右翼、左翼という政治用語が生まれた。最初の段階で革命政府の中枢を占めたのは、有数の財産家ラ・ファイエット侯や、ブルジョワ出身の貴族ミラボーなどの立憲王政派であった。 党派間の溝をひろげたのは教会の問題だった。国家の膨大な借金を帳消しにするために、教会財産を没収して売却する法律が制定され、また1790年に、聖職者を国家の公務員にする法律がつくられた。聖職者には国家への宣誓が義務づけられ、彼らは宣誓の可否をめぐって分裂した。 貴族たちは、伝統の秩序がみだれ、自分たちの身があやうくなることをおそれた。国外に亡命する貴族が増加し、彼らはオーストリアやプロイセンなどの外国君主の援助で部隊を結成した。国内でも、教会の影響の強い農村部では、革命に反対する勢力が出現した。いっぽう、一般の農民や都市の貧困階層は、革命が別段の利益をもたらさないので、しだいに議会に対して不満をもつようになった。パリでは、政治に関心のある市民が傾向に応じて多数のクラブをつくり、また48の地区ごとに住民の集会が開催されるようになった。 1791年6月、国王一家がパリを脱走した。一家の馬車は、フランス東部の国境付近で発見され、パリにつれもどされた。パリの貧困な民衆は共和政を要求し、立憲王政をまもりたい政府とはげしく対立した。7月17日、王政廃止を要求して、シャン・ド・マルスの練兵場にあつまったパリの民衆に対して、ラ・ファイエットの指揮する国民衛兵が発砲し、約50人が死んだ。それでも、憲法制定の作業は終了し、9月に憲法制定国民議会は解散した。10月には選挙が実施され、新しく立法議会が召集された。しかし、国内の亀裂はひろがるばかりであった。
立法議会選挙では再選が禁止されていたので、議員全員が新人であった。また制限選挙制のために、裕福な商工業者や弁護士などが多かったが、貴族はきえていた。議会では、立憲王政を支持し、91年憲法に満足する者が、議場の右側を占めた。これらの議員にはフイヤン修道院にあつまるクラブの会員が多かったので、フイヤン派とよばれ、政治の主導権をにぎった。議場の左側の議員には、ジャコバン修道院でひらかれるクラブの会員が多く、ジャコバン派とよばれた。同派の議員は貧困な階層の要求に同情的だった。 1791年の秋の穀物収穫は不良で、同年末から食料品価格が高騰し、貧困な農民や都市の民衆は、暴動をおこして食料品の価格統制を要求した。だが、フイヤン派政権はこの要求を拒絶した。翌92年の春になると、各地で王党派の反乱がおき、また、王妃マリー・アントワネットの母国オーストリアは、フランスの革命を憂慮し、亡命貴族たちを支援した。そのため、4月に政府はオーストリアと開戦した。 フランス軍は敗北を重ねた。将校は全員が貴族で、その半数は亡命していた。軍の編成はみだれ、将校と兵士の信頼関係もくずれていた。1792年7月になると外国軍と亡命貴族の部隊がフランス国境に到達した。政府は非常事態宣言をだし、これにこたえて、各地で国民衛兵が組織され、パリに到着した。この際にマルセイユからきた部隊の進軍の歌が、「ラ・マルセイエーズ」として有名になり、のちに国歌になった。パリでは、地区ごとに住民の集会が頻繁にひらかれ、兵士の募集がおこなわれた。 フランス軍の敗北や、外国軍隊の侵攻がうわさされて騒然とする中で、王家に危害をくわえる場合には、パリを完全に破壊するというオーストリア・プロイセン連合軍司令官の宣言がパリにつたえられた。パリの民衆は憤慨し、1792年8月10日、チュイルリ宮殿を襲撃。国民衛兵もそれにくわわって、王宮を制圧した。議会は民衆運動の圧力に屈伏して王権の停止が宣言され、王の一家は監禁された。さらに、これまでの議会にかえて全国民の代表のあつまる公会を設置し、あらためて憲法を作成することがきめられた。また、民衆の要求で亡命者の財産の没収が決定された。
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