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  • フランス革命 - Wikipedia

    フランス革命 (フランスかくめい, 仏: Révolution française, 1789年 7月14日 - 1794年 7月27日: 革命暦 2年テルミドール9日)は、 フランス で起きた 革命 。

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    18 世紀末 (せいきまつ ) ,フランスでおきた 市民革命 (しみんかくめい ) (1789〜1799)。 絶対王政 (ぜったいおうせい ) をたおし,アンシャン=レジーム( 旧制度 (きゅうせいど ) )の 封建的 (ほうけんてき ) なしきたりを 廃止 (はいし ) した。

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フランス革命

フランス革命 フランスかくめい Révolution française
百科事典項目
項目構成
V

国民公会(1792~93)

史上はじめて、成人男子全員が参加する普通選挙がおこなわれ、1792年9月21日に開催された国民公会はただちに共和政を宣言した。国民公会の構成員の主流は依然としてブルジョワジーであったが、すでに立憲王政派は存在せず、新人もふくめて、議員はかつてのジャコバン派とその同調者であった。

しかし、ジャコバン派は2つの陣営に分裂した。右派の議員は、ジロンド県の出身者が中心になっていたので、ジロンド派とよばれた。左派は、議場の後方上部にあつまり、山岳派とよばれた。ジロンド派と山岳派の違いは、民衆運動に対する態度にあった。1792年9月初頭、パリ市内の監獄が多数の市民におそわれ、囚人1000人以上が殺されるという事件がおきた。囚人たちによる反革命の陰謀といううわさが、この「九月の虐殺」事件の原因であった。ジロンド派は、民衆を危険視するようになり、山岳派は、民衆をおさえるために妥協の必要を感じた。

国民公会の主導権をにぎり、政府を構成したのはジロンド派だったが、その政権は長くはつづかなかった。最初の対立は国王の処置をめぐっておきた。山岳派は、民衆が要求する国王の裁判と処刑をせまったが、ジロンド派政権は消極的で、国王の処刑によって、国の内外に反発が強まるのをさけようとした。だが、議員の多数は山岳派の、民衆運動に同調する作戦を不可欠と感じていた。国王の裁判は国民公会で1792年12月にはじまり、翌93年1月中旬、議員の投票で有罪が決定した。有罪判決にはほぼ全員が賛成したが、死刑の宣告に賛成するものは半数を少しこえたにとどまった。ルイ16世は、1月21日、革命広場(現コンコルド広場)で、群衆にかこまれてギロチンで処刑された。

対外戦争では、ジロンド派政権は短期決戦で有利な状況をつくり、一気に戦争を終結させる予定だった。しかし、1792年9月にフランス東部のバルミーでプロイセン軍をやぶったあとの終戦工作に失敗した。志願兵は最初の勝利に勢いづき、ベルギー、ドイツ、イタリア方面にすすんだ。フランス軍のベルギー進出に危機感をもったイギリスは、ルイ16世の処刑を口実に外交関係を断絶し、フランス政府は準備のないまま、翌93年2月、対イギリス戦争を開始した。まもなくイギリスが中心となって対仏大同盟が結成され、フランスは周辺諸国との戦争にまきこまれた。3月下旬には、フランス軍はオランダとベルギーで敗北し、敵の軍隊はふたたび、国境に近づいた。同じころ、フランス西部で反革命暴動が発生した。

危機的な状況の中で、パリでは、左派系の新聞や政治クラブが断固たる対処を政府に要求し、これに応じて山岳派の発言権も強まった。国民公会は、山岳派の主導で、1793年3月初めに革命裁判所を設立し、4月には公安委員会を設置した。この委員会は数名の国民公会議員によって構成され、行政活動を監視し、必要な場合には国防政策を決定する権限をあたえられた。5月にはいると、公安委員会は穀物などの最高価格令を公布した。

この当時、パリの町では無数の新聞が発行されており、それらの新聞のつたえる情報や呼び掛けは、地区の集会などを通じて一般の民衆にまで浸透していた。はげしい扇動をする「デュシェーヌおじさん」と題する新聞をだしていたエベールや、司祭のルーなどが、民衆の間で人気があった。また、新聞「人民の友」を発行し、1792年8月の蜂起に大きな影響をあたえたマラは、反革命の陰謀を書きたて「九月の虐殺」事件をひきおこした。これら民衆運動のリーダーたちはジロンド派政権打倒をよびかけていた。

1793年6月2日、8万のパリ市民が議場をとりかこみ、ジロンド派の主要メンバーを逮捕した。ジロンド派政権は崩壊し、山岳派が主導権をにぎり、貧困な農民の要求をいれて、亡命貴族から没収した土地を細かく分割して売却することや、農民の共有地を平等に分割することをきめた。さらに、山岳派主導のもとに、国民公会は、6月に新しい憲法を採択した。この中には、貧困な者に労働の機会をあたえることや失業者の生活保障、万民への教育の保障などがもりこまれ、人民は蜂起する権利をもつと記された。そして、参政権は、成人男性に限定されていたが、貧富を問わずあたえられることになった。

山岳派の支配する国民公会が富裕階層の活動を規制し、貧困階層を優遇する姿勢をしめしたことから、国民公会に反発する動きが全国にひろがり、パリを脱出していた、かつての議員や、新たに公会をおわれたジロンド派議員などが中心になって、反政府運動が組織され、マルセイユやトゥーロンボルドーなどの港湾都市、リヨンなどの商業都市で暴動がおきた。フランス西部の暴動はひろい範囲に拡大し、フランス共和国は近隣諸国全体を敵としていたので、北部、東部、南部の全国境地帯で戦闘がくりひろげられ、指揮官と兵員の不足しがちなフランス軍は各地で苦戦を強いられた。

VI

恐怖政治(1793~94)

内外の危機を前にして、国民公会は一連の措置をとった。公安委員会のメンバーが更迭され、民衆の要求にそって革命を徹底させようとしていたロベスピエールが中心になった。民衆の要求をいれて、食料の隠匿を摘発する部隊がつくられ、買い占めでもうけようとする商人は、場合によっては死刑にされることになり、また、生活必需品全体の価格が統制されることになった。

いっぽう、1793年8月に全国民を革命の防衛にかりだす国民総動員令が、9月には反革命容疑者に関する法律が制定され、不審な言動をする者はただちに逮捕された。そして10月には、平和が到来するまでは非常事態におかれるとして、全政府機関が公安委員会の監視下におかれ、公安委員会の独裁が成立した。

1793年10月以降には、王妃マリー・アントワネットやかつてのジロンド派議員などが処刑されたが、裁判の手続きは大幅に簡略化され、じゅうぶんな弁護はおこなわれなかった。こうして「恐怖政治」が進行し、93年3月に革命裁判所が設立されてから、翌94年7月までに処刑された者は、全国で1万6000人以上にのぼった。また、キリスト教は目の敵にされ、西暦が廃止され、共和暦が制定された。

強力な統制のもとで共和国軍の再編成は急速にすすんだ。全国でわかい男性が強制的に徴用され、選挙によって将校がえらばれ、軍隊は生まれかわった。戦場には国民公会から議員が派遣されて、状況を監視し、作戦に失敗した場合には、指揮官が処刑されることもあった。トゥーロン港をめぐる戦闘では、わかい将校ボナパルト(のちのナポレオン1世)の活躍がめだち、まもなく将軍に任命された。1793年のうちに、国内の暴動はほとんど鎮圧され、フランス国内に侵入していた外国軍は一掃され、フランス軍はふたたび、国外でたたかうようになった。

軍事的な危機の減少にともなって、独裁をささえていた勢力の間に亀裂がひろがっていった。公安委員会の独裁は、十数名の公安委員だけでおこなわれたものではなかった。議会の外部には、エベールなどのジャーナリストの指導によってうごく民衆運動があり、また議会の中には、公安委員会設立の母体となった山岳派のほかに、追放されたジロンド派とは別に過半数を占める一般の議員が存在した。彼らは議場前方の低い部分に席を占めたので、平原派とよばれていた。平原派は、革命の挫折をおそれて、一時はジロンド派政権を支持したが、やがて山岳派支持に転じていた。この平原派の支持があってはじめて、公安委員会の独裁がなりたっていたのである。

1794年の春になると、公安委員会は、国民公会外部の民衆運動への統制を強めはじめた。すでに93年夏には、過激な扇動をする司祭のルーが逮捕されており、彼は94年春に獄中で自殺した。公安委員会は3月、エベールとその仲間を逮捕し処刑したが、彼らの扇動は国内の対立を再燃させ、共和国を崩壊させる危険なものと判断されたのである。民衆運動の指導者が処刑されると、国民公会内部の結束を重視して民衆運動を危険視していたダントンらの「恐怖政治」の緩和を要求する声が高まったが、公安委員会は今度はダントンとその仲間を3月末に逮捕し、処刑した。

私欲のない謹厳な弁護士だったロベスピエールは、利己主義的で不純な勢力を排除して、貧富の格差のない、規律のある理想社会を建設しようと考えていた。しかし、平原派の議員たちにとっては、ロベスピエールの役割は、民衆運動を統制し、共和国をまもることにあった。内外の軍事上の敵が排除され、民衆運動の圧力がきえた以上、公安委員会は危険な存在であった。1794年7月27日、すなわち共和暦第2年熱月9日(テルミドール9日)、ロベスピエールとその友人たちは逮捕され、翌日、処刑された。

VII

総裁政府(1795~99)

1794年7月27日の事件(テルミドールの反動)のあと、国民公会で主導権をにぎったのは平原派だった。まもなく公安委員会の権限は縮小され、革命裁判所の組織はかえられた。また、ジャコバン・クラブは閉鎖された。最高価格令は廃止され、経済活動の自由が復活したが、はやくも食料品の投機や買い占めがおこなわれ、94年から95年にかけて、食糧危機が再来した。95年の4月と5月にパリでは民衆蜂起が発生したが、民衆運動の指導者たちはすでに存在せず、たちまち蜂起は鎮圧された。

1795年に共和暦第3年の憲法が制定された。その性格は91年憲法に近く、フランスは「持てる人々の統治する国」になった。普通選挙制は廃止され、一定以上の納税をしている21歳以上の男子だけに選挙権があたえられた。独裁をさけるために、権力の分散がはかられ、定員 250人の元老会議と五百人会議の二院制がとられた。行政は5人の総裁からなる総裁政府に託され、総裁は五百人会議によって作成された50人の候補者リストから元老会議によってえらばれた。新しい憲法は成人男子全員の国民投票にかけられ、可決された。共和暦第4年霧月(ブリュメール)4日(1795年10月26日)、国民公会は解散した。

総裁政府をぎゅうじった穏和な共和派は過激な民衆運動を嫌悪したが、王党派に妥協する意志もなかった。しかし、山岳派の残党や、パリの民衆運動の活動家はのこっており、また、テルミドールの反動のあと、亡命していた貴族や、ひそんでいた立憲王政派がふたたびまいもどってきた。総裁政府は左右からの圧力に対してバランスをとる必要にせまられた。

1796年には、左翼の活動家の陰謀が発覚した。バブーフが中心となり、秘密結社を組織して権力を奪取し、平等な社会を建設する計画であった。この私有財産の否定をとなえた最初の社会主義団体の首謀者は逮捕され処刑された。すでに95年には小規模な王党派の暴動があったが、97年の3分の1の議員を改選する選挙では、王党派が当選者の大半を占めた。総裁政府は軍隊を利用し、王党派議員を追放した。さらに、98年の選挙でジャコバン派が進出すると、総裁政府は彼らの当選を無効とせざるをえなかった。

いっぽう、外国との戦争はつづいていた。恐怖政治の時代にたてなおされた軍隊は、経験をつみ、戦闘能力は高かった。1797年には、フランス国境周辺のオーストリア領をうばって、フランス共和国と同じ制度をもつ保護国にし、いったん戦争は終了したが、98年になると戦争は再開し、対仏大同盟諸国との全面的な戦争に発展した。

総裁政府は、左右の敵をおさえこみながら、国内の再建をすすめ、1796年には、中央官庁の機構が整備された。国民全体を国家の手で教育しようとする革命当初の計画は失敗したが、90年代の末には、各県に核となる学校がおかれ、ようやく全国的な教育行政がととのった。国家財政の基礎になる租税制度も98年には整備され、中央政府による全国の統治が軌道にのりはじめた。

しかし、1799年、戦争が激化するのと並行して、議会では左翼系議員が勢力をのばし、地方では王党派の活動が盛んになった。総裁政府をささえてきた共和派は、「持てる人々の統治する国」を安定させる人物に支配をゆだねようと考えた。それがナポレオン・ボナパルト(ナポレオン1世)であった。共和暦第8年霧月(ブリュメール)18日(1799年11月9日)、総裁政府は解散し、翌日、議会はナポレオンをふくむ3人の執政の任命を決定した。

VIII

フランス社会の変化

革命によって、フランス社会はどのように変化しただろうか。まず、身分制が廃止された。生まれによって一生が決定されることはなくなり、原則として、人々は、自己の意志と資質と努力によって人生をえらぶことができるようになった。自由で平等な個人の確立、所有の権利の確認は、資本主義的な経済活動の基本の条件であった。また、身分制の廃止は、領主をなくした。地域における領主の規制がなくなり、全国におよぶ自由な経済活動が可能となった。

政治的には、フランス全国を共通の法体系でつつみ、ただ一つの政府によって統治される国にかえた。しかし、3000万近い人口をもつ広大な国土を、中央政府の意向のもとに実際に統治するためには、緻密で堅固な行政組織と法体系が必要だった。そして、それを整理するには、長い安定した時間が必要だった。政治家や官僚がナポレオンの支配をうけいれた理由はここにあり、ブルジョワたちもナポレオンに期待した。経済についても、生産や流通の仕組みを整備し、宿敵イギリスに対抗できるようにする課題がのこされていたからである。

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