検索
エンカルタ内で検索 : 鉄道

Windows Live® の検索結果

  • 鉄道コム

    鉄道ファンのための“みんなで作る”鉄道情報最新サイト。 鉄道のニュースやイベント情報をキャッチ! Nゲージの価格や在庫情報もたっぷり! 人気の鉄道ブログや動画を見つけやすい! 鉄道クイズに挑戦、出題する楽しみも! ビギナー鉄も楽しめる ...

  • 鉄道 - Wikipedia

    1929年 - 1938年に発行されていた雑誌「鉄道」については「 鉄道 (雑誌) 」を、 シャルル=ヴァランタン・アルカン のピアノ独奏曲については「 鉄道 (アルカン) 」をご覧ください。

  • 鉄道 - 国土交通省

    【国鉄職員・ご遺族のみなさまへ】アスベスト(石綿)被害者のご遺族に対する特別給付金の請求期限は平成24年3月27日です ... 鉄道技術 鉄道分野における「平成21年度 標準化活動貢献者表彰」受賞者の決定について(2009/10/27)

すべての検索結果 :
Windows Live® の検索結果
ページ 5 / 6

鉄道

鉄道 てつどう
百科事典項目
項目構成
1

鉄道の夜明け

日本の鉄道は、1854年(嘉永7)アメリカの東インド艦隊司令長官ペリーがひきいる4隻の黒船とともにやってきた。アメリカ大統領から将軍へあてた贈り物の中に、蒸気機関車と客車の模型1組(実物の4分の1大)がふくまれていた。横浜村の海岸に陸揚げされたあと、アメリカ人の手によって、はじめて蒸気機関車の運転がおこなわれた。黒煙をあげ、地響きをたててはしる姿に、応接の役人や多くの日本人は大きな衝撃をうけた。数年後の1868年(明治元)、江戸~横浜間の鉄道敷設案が提唱されたが、この計画に対しては、明治政府の高官の間でも圧倒的に反対が多く、民間でも街道筋の旅籠(はたご)、かご屋、飛脚などの業者が強く反対した。結局、伊藤博文大隈重信らの熱意により、69年に国有鉄道建設の計画がたてられた。

日本最初の東京~横浜間の工事は1870年3月から、大阪~神戸間の工事は70年6月からはじまった。6月には京浜間の神奈川陸橋に着工し、つづいて10月から翌年の10月にかけて六郷川の鉄橋工事がおこなわれたが、この鉄橋は実に延長623.6mという、当時としては長大なものであった。71年に、かねて注文してあった4輪連結の水槽付き機関車(110号型)8両と炭水車付き機関車(5000号型)2両がイギリスからとどいた。この110号型の機関車の重量はわずか23tであった。

京浜間の新橋~野毛間29kmは1872年9月に開通、同月より運転営業を開始した。同じく大阪~神戸間32.7kmも74年5月に完成、77年には大阪~京都間も開通した。以後、89年7月に新橋~神戸間(約600.2km)の東海道本線が開通し、91年9月には、半官半民の日本鉄道会社により、上野~青森間の全線(約730.7km)が開通するなど、鉄道路線は国有、民間会社の別はあっても、次々と全国に延長されていった。

2

明治期鉄道技術の輸入

当初、鉄道の建設にあたっては、日本の権益をもとめるフランスそのほかの列強諸国の外圧もあったが、結局イギリスに援助をもとめることになり、1870年(明治3)イギリスからエドモンド・モレルをまねいて建設師長とし、京浜間(新橋~横浜)と阪神間(大阪~神戸)の測量にとりかかかった。

モレルはたんに技術的なことばかりでなく、大蔵少輔(おおくらしょうゆう)伊藤博文に対して、管理機構の面でも工部省の設置が必要なことや、将来の技術者養成の専門教育機関の設立をすすめるなど、適切な進言をおこなった。さらに京浜間の工事に際しては、日本は木材が豊富であるから、レールの枕木は鉄よりも木のほうが適当であるという報告書を大隈重信におくっている。

開通した京浜間の鉄道はイギリス製機関車でひき、燃料もほとんどイギリスの輸入炭を使用した。運転は、イギリス人が担当し、日本人の火夫が釜たきをおこなうなど、すべてがイギリス方式であった。

新橋と横浜の停車場は、アメリカ人のブリジンスが設計した石造2階建て2棟連結で、正面に2カ所の出入口がある西洋式建築物であった。当時、鉄道の資材は車両、機械などほとんどがイギリス製であったため、レール、鉄製枕木、スパイクなどは輸入にたよっていた。

鉄道の設計段階で問題になったのは、ゲージであった。当時ヨーロッパでは、小規模の鉄道には狭軌のほうが経済的であるという意見が多く、日本政府から委任されたイギリス人ネルソン・レーは、顧問のブレストン・ホワイトと相談した結果、1067mmの狭軌を採用することに決定した。以後、日本の鉄道では、狭軌が現在にいたるまで使用されているが、後日、大隈重信は、鉄道の知識が浅いため、イギリス人にまかせたままにしたことを後悔する言葉をのこしている。

3

民営鉄道の発達

1881年(明治14)に、日本で最初の民営鉄道「日本鉄道株式会社」が創設され、2年後、上野~熊谷間が開通、つづいて前橋まで延長された。91年には現在の東北本線が青森まで開通した。そのほか、85年から89年にかけては、阪堺鉄道、甲武鉄道、伊予鉄道、山陽鉄道、関西鉄道、九州鉄道、両毛鉄道、水戸鉄道などが次々と開業し、民営鉄道の営業路線は全国の50%をこえるようになった。

政府はこのような状況に対し、1892年に鉄道敷設法を公布して、鉄道建設の指導にあたることとなった。以後、官営、民営とも営業キロ数は伸長し、輸送力は増大していった。

1894~95年の日清戦争と1904~05年の日露戦争により、国力の増大と軍事的な要請で全国の幹線鉄道の統一がすすみ、06年、鉄道国有法が公布されると、翌年までに全国のおもな民営鉄道17社が買収、国有化された。

その後、全国各地の民営鉄道は地域の交通機関としての役目を分担することになり、明治末期から大正初期にかけて、全国的に民営鉄道が盛んに建設された。とくに東京や大阪などの大都市では、都市と近郊をむすぶ地域に電気鉄道が開通し、都市の発展につれてその経営規模は大きくなっていった。1919年(大正8)に地方鉄道法、21年には軌道法が公布され、民営鉄道に対して統一的な規制がしかれたのである。

4

軍事と鉄道輸送

神風連の乱、萩の乱、西南戦争、京城事変(壬午軍乱)などによって、政府は軍事輸送の不備を痛切に感じた。なかでも軍部は、軍備の拡張と鉄道の建設を強く希望した。1883年(明治16)、軍部の指導者であった山県有朋は、軍事的観点から、東海道をさけて中山道(高崎~大垣)に鉄道を建設する案を提出した。

政府も1883年に中山道線の建設にふみ切ったが、結局、工事が困難なことや建設費などの点で、東海道に変更されることになった。89年6月には、陸海軍の大臣の要請により、横須賀線(大船~横須賀)が軍事路線として開通し、さらに94年の日清戦争勃発(ぼっぱつ)とともに、青山練兵場から甲武鉄道をへて、東海道本線に接続する品川西南線と東海道本線の神奈川~保土ヶ谷間が軍事費によって建設された。

1905年9月の日露講和条約によって、日本は南満州鉄道の経営権を獲得し、翌年6月に南満州鉄道株式会社が設立された。また、台湾総督府によって台湾縦貫鉄道が完成し、樺太(現サハリン)には陸軍第13師団の軍事輸送のために、11年に鉄道が開通した。05年1月には、朝鮮半島の京釜鉄道株式会社によって釜山~京城(現ソウル)が、翌年4月には京城~新義州が開通。44年、鴨緑江の架橋工事の完成により、鉄道は京城~長春間をむすんで、国際列車の直通運転が開始され、これによって大量の軍事輸送が可能になった。

なお、1934年(昭和9)12月には、南満州鉄道株式会社が大連~新京(現、長春)に、平均時速84.1kmの国際特急あじあ号の運転を開始した。

5

帝国主義時代と鉄道

1931年(昭和6)の満州事変以後、国内の各企業にも戦争の影響がおよんだ。鉄道建設も例外ではなく、多くの工事が中止され、新線の建設は軍事路線が優先されるようになった。

1941年に太平洋戦争がはじまると、軍事上重要な路線は新設されたが、軍事輸送にかかわりのない路線は休止、縮小された。またレール、枕木、橋げたなどの資材や施設なども軍事路線に転用された。44年、鉄道敷設法戦時特例が公布されると、軍事路線の建設はさらに積極化し、貨物列車をひく蒸気機関車は、軍部の要請によって新しく設計されたD51型、D52型などの大型機関車が多用された。これらの機関車は戦後も旅客用の急行列車として活躍し、戦後の復興に貢献した。

前のページ
| | | | |
次のページ
項目内で検索
項目全体を印刷
項目の URL をメールで送る




© 2009 Microsoft