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ポルトガルの航海者は大西洋を南下して、1444年にはベルデ岬に、60年にはシエラレオネにまで達している。ドゥアルテ王(在位1433~38年)とアフォンソ5世はモロッコ遠征をくりかえし、タンジールとアシラを獲得した。
ジョアン2世は、強大化した貴族勢力をおさえて王権の回復につとめ、また海外政策としては1482年にエルミナ(現、ガーナ)にポルトガルの要塞(ようさい)をきずき、コンゴ王国(現、アンゴラ)と外交関係をむすんだ。87~88年には、ディアスがアフリカ南岸をまわる東方航路を開く。94年、ポルトガルとスペインはトルデシーリャス条約をむすび、カーボベルデ諸島(→ カーボベルデ)西方370レグア(約600km)の線上から東に位置する土地が、ポルトガルの勢力範囲とされた(→ 教皇子午線)。
マヌエル1世の治世下で、ポルトガルの勢力は最大となった。バスコ・ダ・ガマがディアスの発見した航路をたどってインドに達し、香料・奢侈品(しゃしひん)の交易がはじめられる一方、アルブケルケにひきいられたポルトガル軍は1510年から15年にかけて、ゴア(インド)、マラッカ(ムラカ。マレーシア)、マルク諸島(インドネシア)、ペルシャ湾のホルムズ島を占領する。また中国との商取引を開始し、エチオピアとの外交関係を確立した。マヌエル1世はスペインにならって、ユダヤ人とイスラム教徒を追放した。その子ジョアン3世はブラジルの植民地化をすすめ、やはりスペインにならって異端審問制度をとりいれた。しかし57年に彼が死去すると、ポルトガルは衰退にむかいはじめ、セバスティアン王、エンリケ王の治世をへて、80年にアビス朝は終焉(しゅうえん)する。
エンリケの死後、スペイン国王フェリペ2世が、1580年ポルトガル王フィリペ1世として即位する。ハプスブルク・スペインへの併合の60年間、ポルトガルにはスペインの重い軍事費の負担がかかり、他方ポルトガルの東方貿易支配は1600年からオランダとイギリスにかわるようになっていた。40年、フランスの援助をうけてポルトガルは独立し、ブラガンサ公ジョアンがジョアン4世として即位、ブラガンサ朝がはじまった。
ジョアン4世は1630年以来ブラジルを占領していたオランダ人を追放し、イギリスとの伝統的なきずなを強めた。18世紀に入ってブラジルで金とダイヤモンドが発見されると、ポルトガルはふたたび繁栄への道をたどりはじめる。1683~1750年に、ポルトガル貿易はイギリス商人に独占される。ジョゼ1世のもとで、宰相ポンバルは、貴族と教会の特権をおさえ、産業と教育を奨励し、貿易の外国人独占状態をたちきるなどの業績をあげた。フランス革命とナポレオン戦争の時代には、ポルトガルはイギリスとともに反フランスの立場にたった。 1807年ナポレオン軍がポルトガルを攻略すると、王室はブラジルに亡命、リオデジャネイロに政府をおく。11年にフランス軍が撤退しても、王室はブラジルにのこり、15年ブラジルは分離王国となった。16年ジョアン6世は両王国の王位を継承し、ポルトガルは摂政会議を通じて支配されるようになった。
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