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ポルトガル

ポルトガル Portugal
百科事典項目
項目構成
3 B

立憲君主制

1820年、ポルトガル軍は立憲政治の確立をめざして革命をおこす。ジョアン6世は立憲君主としてポルトガルに帰国し、子のドン・ペドロをブラジル摂政としたが、ブラジルは22年に独立を宣言、ドン・ペドロはブラジルのペドロ1世として即位した。一方、ポルトガルではペドロの弟のドン・ミゲルが絶対王政の回復をはかって反乱をもくろむが失敗し、ウィーンに亡命した。

1826年、ブラジルのペドロ1世はポルトガル王ペドロ4世として即位。王権をさらに強化した憲章を制定したのち、彼は王位を7歳の娘マリア2世にゆずる。28年、ウィーンからもどったドン・ミゲルはマリア2世から王位をのっとったため、内乱が勃発(ぼっぱつ)するが、イギリス、フランス、スペインの援助をえて、マリア2世は34年に王位に復帰した。その後ペドロ5世、ルイス王のもとで、政治的な紛争はしだいにおさまった。

4

共和国

しかし、カルロス1世の治世の時代になって共和主義運動がおこり、1910年10月、陸海軍の革命でカルロスの子マヌエル2世が退位させられ、ポルトガル共和国が成立する。

つづく15年間は政治的混乱の時代だった。第1次世界大戦中、イギリスとの同盟関係からポルトガルはドイツとたたかうことになる。国内の政治紛争はやまず、1919年にはこれにくわえて王党派の反乱がおこる。26年5月には軍事クーデタが成功、カルモナ将軍が権力の座についた。28年にはコインブラ大学の経済学教授サラザールが蔵相に任命され、ポルトガルの財政再建のために大きな権限があたえられた。

4 A

サラザール独裁体制

サラザールは財政再建に成功し、共和国憲法で剥奪(はくだつ)されていた教会特権を復活させ、1930年には権威主義的色彩の強い政治組織「国民同盟」を組織、32年には独裁者として首相に就任する。ポルトガルは計画経済にもとづく組合主義的国家となり、この新しい体制は「新国家」体制とよばれた。36年にスペイン内乱がはじまると、サラザールはフランコ将軍ひきいる反乱軍を支持し、39年にはスペインと友好不可侵条約、40年には第2次世界大戦における両国の中立を確約した議定書がむすばれた。しかし枢軸国側の戦況が不利になると、ポルトガルは連合国側よりの立場をとるようになる。

計画経済は大戦中に大きな打撃をうけた。また東インド諸島へ日本が進出したため、アジアにおけるポルトガルの海外領土はおびやかされ、1942年にはティモール島を占領された。大戦末ごろには、ポルトガルは失業と貧困にくるしんでいた。政府は47年5月、反乱未遂事件をきっかけに多数の労働運動の指導者と軍の将校をカーボベルデ諸島へ追放、反体制派を抑圧した。

1950年代を通じて、ポルトガルはアメリカとの関係を強化した。60年代、ポルトガルの海外植民地では次々に解放戦争がはじまる。61年にインドはゴアを併合し、以降アンゴラ、ポルトガル領ギニア(現、ギニアビサウ)、モザンビークでも反乱がおこる。このアフリカでの動きに対して多大な兵力をつぎこむ一方、領土内での政治的、経済的状況の改善につとめた。しかし、戦闘は70年代に入ってもつづけられ、ポルトガルは国際連合から「植民地戦争」をおこなったことで非難をうける。

1960年代の半ば、ポルトガルは外資導入政策をとり、経済はいくぶん成長へとむかった。この間、いくつかの学生デモはあったが、反サラザール派は結束しなかった。

4 B

民主化

1968年9月、サラザールをついで首相に就任したカエタノは、サラザールのアフリカにおける抑圧的な政策をそのままうけついだ。アフリカにおける一連の解放運動はポルトガル経済をゆさぶり、植民地戦争は泥沼化していった。この状況に危機感をつのらせた左翼的将校グループは74年3月、「国軍運動(MFA)」を結成し、同年4月25日、無血クーデタによりカエタノ政権を打倒する。40年以上つづいた独裁体制はおわり、臨時大統領に就任したスピノラ将軍は、国内の民主化とアフリカ領土での和平を約束した。

しかし、植民地の完全独立をとなえるMFAとスピノラ派との対立は深まり、辞任したスピノラが1975年3月、クーデタに失敗して亡命したあと、政権は革命評議会が掌握。軍の再編や社会経済改革に着手し、重工業や銀行の国有化や、大土地所有の接収、再分配をすすめた。社会党と共産党の対立が激化し、政治情勢は不安定だったが、9月に海軍中将アセベドが首相に就任すると、政情はやや安定を回復する。この間、アフリカでは、ギニアビサウ、モザンビーク、カーボベルデサントメ・プリンシペ、そしてアンゴラが、あいついで独立をはたした。一方、東ティモールは、ポルトガルが撤退して75年に独立派が独立を宣言したが、その後インドネシアに占領された。

4 C

混迷をへて安定政権へ

1976年4月、「階級なき国家」をうたった新憲法が公布され、議会選挙では社会党が多数を獲得、党首ソアレスが首相に就任した。6月にはエアネス将軍が初の直接選挙により大統領にえらばれる。しかし、旧植民地から大量の帰国者をむかえたことなどから、ポルトガルは深刻な経済危機にみまわれ、国内政治の混乱がつづいた。79年12月の選挙では、サ・カルネイロひきいる保守派の民主連盟が圧勝し、82年、憲法が改正されて社会主義色はうすめられた。83年4月の総選挙後ソアレスがふたたび首相の座にもどり、緊縮政策とEC(ヨーロッパ共同体。現EU)加盟の交渉がはじめられる。

1985年10月の総選挙の結果、社会民主党のカバコ・シルバを首班とする連立内閣が成立した。翌86年ポルトガルはECに加盟する。87年の選挙では、社会民主党が過半数を制し、革命後はじめて単独の安定政権が誕生した。カバコ・シルバは89年に憲法を改正して国有産業の民営化をすすめ、経済拡大政策を推進。91年の総選挙でも社会民主党が多数を獲得した。前首相ソアレスは86年、大統領に選出され、91年に再選されている。

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