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1858~1919 アメリカ合衆国第26代大統領。セオドア・ローズベルトとも表記する。在任1901~09年。革新主義の内政と、巧みな外交を展開し、人気の高い大統領のひとりとなった。 1858年、ニューヨークの名門に生まれ、80年にハーバード大学を卒業し、政界にはいる。共和党員として81年にニューヨーク州議会議員となり、84年にいったん議員を辞すが、86年に復帰、連邦公務員制度委員、ニューヨーク市警察総監を歴任。97年にマッキンリー大統領のもとで海軍次官となり、海軍力の増強・近代化をはかるかたわら、スペインからの独立運動をおこなうキューバへの介入に積極的姿勢をとった。
1898年、アメリカ・スペイン戦争がおこると海軍次官を辞し、荒馬騎兵隊と称する義勇隊をひきいて参戦、キューバのサンフアン・ヒルの戦で大戦果をあげていちやく国民的英雄となる。同年、ニューヨーク州知事選挙に出馬、激戦のすえに勝利した。共和党とは距離をおいた彼は、大衆のもとめる独占企業への規制や、自らの念願である自然資源の保護につとめる。1900年の大統領選挙では、副大統領候補となり当選、01年にマッキンリー大統領が暗殺されると、史上最年少の大統領に就任した。
ルーズベルトは台頭しつつあるマスコミ(→ マス・コミュニケーション)を通じて、劇的効果を計算しつつ、若さと行動力を売りこみ、国民大衆の人気をあつめた。彼は、連邦政府の権限拡大により公益をまもることをとなえ、独占企業の規制でトラスト討伐者の異名をとったほか、炭鉱労働者のストライキ調停や国有林設置による資源保護を推進した。1904年に再選されると、ヘプバーン法(1906)による鉄道規制強化や、純良食品薬品検査法(1906)による食品・薬品の監督強化もおこなった。しかし、これらの課題を強引に推進しようとして共和党保守派の反発にあった。
大統領就任直後から「こん棒を手に、おだやかに話せ」という長年のモットーで積極外交を展開する。パナマ独立革命を扇動して成功させ、1903年にパナマ運河地帯を獲得するなど、カリブ海地域への勢力拡大をはかり、モンロー主義のルーズベルト系論(新モンロー主義)をとなえて、ラテンアメリカで国際警察力をふるう権利を主張した。これはアメリカが伝統的にとってきた外交政策の孤立主義から大きく一歩ふみだすものだった。 またヨーロッパやアジアにおける勢力均衡にも尽力し、日露戦争終結の仲介(→ ポーツマス条約)やモロッコ紛争の調停をおこない、アメリカ人としてはじめてノーベル平和賞を受賞する。軍備を後ろ盾とする外交をとなえ、陸軍の組織改革と海軍力強化を推進、1907年に海軍の世界一周を挙行してアメリカの軍事力を世界に誇示した。さらに日米紳士協約(1908)により日系移民排斥問題の解決もはかっている。08年の大統領選挙には出馬せず、翌年大統領をしりぞいた。
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